フランスの核

 どうも。久々の投稿となります。GW中は積み上げてきた本を読むだけの機械となっていました。今回はフランスの核について書くなどしております。ではどうぞ。

 

 1. はじめに

 2020年4月28日、フランス海軍の原子力攻撃潜水艦シュフランが潜航試験を無事完了したとのニュースが流れた。同艦はフランス海軍が久しぶりに新造した原子力攻撃潜水艦で、水中排水量5,350t、原子力ターボエレクトリック機関を搭載し、水中速力は25ktで、4門の533mm魚雷発射管を装備し、魚雷、エグゾセ対艦ミサイル、機雷、巡航ミサイルを搭載する。1番艦のシュフランを初めとして計5隻の同型艦が建造される予定で、1983年から1993年にかけて6隻が竣工した(うち1隻はすでに退役)リュビ級原子力攻撃潜水艦(水中排水量2,670t、原子力ターボエレクトリック機関、水中速力25kt)の後継艦として大いに期待されている。

 

 フランス海軍は現在、前述のリュビ級原子力攻撃潜水艦5隻に加え、潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)を搭載したル・トリオンファン級原子力弾道ミサイル潜水艦4隻を保有しており、こちらはフランスの核抑止戦略を一手に担っている。フランスは冷戦期においても現代においてもNATO(北大西洋条約機構)の中で上位に位置する海上兵力を保有し、核戦力を維持し続けることでフランス本国とヨーロッパの防衛に大きく寄与している。

 だが、フランスは1966年にNATOの軍事機構を一度脱退した(2009年に復帰した)ことからも分かるとおり、西側自由主義陣営の中では他国、特にアメリカと一定の距離を置いた国防政策をとっていた。フランスがこのような(身勝手な)行動を取ることができたのはヨーロッパを土台とした周辺国、アフリカ、中東への影響力があったことはもちろんだが、核戦力の存在が大きな理由であることは間違いない。「身勝手なフランス」を支えるフランスの核はどのように生まれ、発展していったのか振り返ってみたい。なお、項目2「核兵器開発まで」と項目3「第五共和政とドゴール」については、山田文比古『フランスの外交力』「第9章 力~外交の最終的担保としての軍事力~」P.184以降に記された核兵器開発の流れを要約引用する形でまとめていることを先に記しておく。

 

2. 核兵器開発まで

 第二次世界大戦終結した後、様々な混乱を経てフランス第四共和政がスタートした。ドゴール率いる自由フランス軍や国内のレジスタンスも奮闘したとはいえ、やはり直接的にフランス本土解放に寄与したアメリカとイギリスの存在は無視することはできず、戦後すぐに表面化した自由主義陣営と共産主義陣営の対立もあって、第四共和政は両国との関係強化を重視する方針をとった。ソ連の核戦力に対しては、基本的に米国の核の傘に依存する、というスタンスで、政府も軍部も核兵器の開発と維持は困難と考えていた。戦争で被った被害を考えれば当然であろう。一方、原子力という新しいエネルギーに関しては、民生利用としての期待が早い段階から持たれており、1945年10月には原子力研究開発機関としてフランス原子力庁(CEA)が設立された。設立から数年間は民間向けの研究が進められていたが、50年代に入ると変化が訪れる。復興が順調に進む中、政府や軍部の中で核兵器の開発計画が浮上し始めたのだ。1951年にはABC(核・生物・化学)兵器に対応するための「特別兵器対策班」が軍内部に設立され、その班長に任命されたアイユレ大佐は核兵器の費用対効果と実現性を早急に調査した上で、早くも翌年にフランスは一刻も早く核兵器保有すべきであると政府へ提言している。同年には核兵器用のプルトニウム生産を最優先で行うことを目標とした計画が議会で承認された。1954年にはマンデスフランス内閣(1954年6月~1955年2月)の下で「核爆発委員会」が、CEA内部には核兵器開発を担う「総合研究班」が設立された。同班はのちに「軍事応用局(DMA)」と改名され、現在に至るまでフランスの核兵器開発の中核的存在である。

 着々と核兵器開発の下準備が進む中、フランスに核兵器保有を決意させる事態が発生した。1956年、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化計画に対して、イギリスとフランスがイスラエルを誘って軍事行動をとった、いわゆるスエズ危機である。軍事的には成功したものの、アメリカとソ連の介入を受け(特にソ連核兵器の使用まで仄めかした)、結果的に両国は派遣した軍隊を撤退させるしかなかった。この事件によってイギリスとフランスは国際的な批難を浴びただけでなく、アメリカの核に頼らなければならない、いわば自分たちは従属の立場でしかないことを痛感する羽目になった。

 イギリスはこの後、アメリカとの関係を第一に考え、協調する姿勢を取り続けるが、フランスは外交における独立性が失われるとして対米依存から脱却する方針を模索し、核実験の研究と戦略爆撃機の試作開始がモレ内閣(1956年2月~1957年5月)のもとで認められた。1958年にはガイヤール内閣(1957年11月~1958年5月)が原爆製造を決定し、1960年にサハラ砂漠でフランス初の核実験が行われた。

 上記だけ読むと、スムーズに核兵器の開発が行われたかのように見えるが、もちろんフランス国内が満場一致で核兵器開発を支持していたわけではない。ご存知の通り核兵器の開発と維持には非常に費用がかかる。通常戦力の整備に加え、より金がかかる核兵器保有など負担が大きすぎる。また、圧倒的な核戦力を持つアメリカとソ連の前ではフランスの核兵器など「ちゃちな爆弾」に過ぎない、などといった批判が国内で見られたのは確かである。しかし、そのような反対意見があっても核兵器開発が推し進められたのは、第二次世界大戦でドイツ軍に敗北し、アメリカとイギリスの力がなければ国土の解放が出来なかった、という覆すことのできない屈辱的な事実と、広島と長崎に投下された原子爆弾の威力を目の当たりにしたフランス人が、自分たちの頭上にあれが投下されたらどうなってしまうのか、という恐怖からくるものであったことは間違いないだろう。核攻撃を受けないようにするには、自らも核兵器を持って対抗するしかない。CEAの職員や軍内部の高官には自由フランス軍を率いたドゴールの下で働いていた人物も多く、ドゴール的な、「強いフランス」を復活させんとする思想を持つ者が多くいたのも少なからず関係している。フランスの核兵器開発はドゴールが直接推し進めたわけではないが、大戦の悲惨な結果から、圧倒的な武力を持つことの必要性をフランス国民は少なからず理解していたと言える。

 

3. 第五共和政とドゴール

 フランス初の核実験が行われた1960年より少し遡ること1958年、アルジェリア独立問題で国内が分裂しかかっていた中でドゴールが政界に復帰し、大統領の権限を大幅に強化した新憲法を通して現在まで続く第五共和政を成立させた。政権トップの座に就いたドゴールは、アメリカにある程度協調的な姿勢をとっていた第四共和政から打って変わって、アメリカに挑発的な態度を取り、明確に対米依存脱却の方針を打ち出していく。1959年にはフランス海軍の地中海艦隊がNATOの地中海コマンドの指揮下から一方的に外れた。1961年に行われた4度目の核実験時には、爆撃機搭載が可能なレベルまで原子爆弾の小型化に成功したことを発表し、1963年にアメリカ、イギリス、ソ連の間で部分的核実験禁止条約が結ばれた時には「すでに膨大な量の核兵器保有しているアメリカやソ連に核実験をやめろと言われる筋合いはない」として加盟を拒否し、1964年には大西洋艦隊もNATO指揮下から離脱。2年後の1966年にはNATOの軍事機構を脱退し、NATO加盟国の地位は変わらないが他国との共同行動はとらないことを宣言した。「フランスのNATO離れ」である。また、同年から核実験の実施場所をサハラ砂漠から南太平洋のムルロア環礁に移し、1968年には初の水爆実験を行った。

 1960年代に入り、アメリカが核兵器の使用方針を従来の「大量報復」から「段階対応」に変更したことはドゴールの米国不信を加速させていた。以前は直ちに核兵器で報復攻撃を行うという方針だったのが、通常戦力で対応可能なレベルならば核兵器は直ちに使用しないというものに変わってしまった。ドゴールは、アメリカが自国民の命を危険にさらしてまでヨーロッパのために核兵器を使用するとはそもそも考えていなかった。通常戦力で対応することになった場合、それを正面から受け止めるのは西ドイツ、そしてフランスである。これはフランスにとって受け入れがたい状況だ。アメリカが核兵器の使用を考える頃には、信じられない数の戦車部隊を保有するワルシャワ条約機構(WPO)軍によって西ドイツもフランスも最悪蹂躙されてしまう。第二次世界大戦の惨劇を繰り返してはならない。「フランスは自分自身を、自分自身のために、自分自身のやり方で防衛しなければならない」というドゴールの思想は次第にフランス国民に広まっていくことになる。核兵器保有に当初は反対していた左派勢力も次第にこれを受け入れる態度を取り、1970年代後半にはほとんど話題に出すこともなくなっていた。1981年に大統領に就任した社会党党首のミッテランは、ドゴールが政権の座に就いていた際、フランスの核兵器を「ちゃちな爆弾」と述べた張本人だったが、就任後はフランスにとって核兵器がいかに重要な存在であるか、「フランスの防衛は核抑止力に完全に依存しており、核兵器を廃棄することは自国の運命を他国の手に委ねるのに他ならない」と述べている。

 フランスは冷戦期も現在も経済的、軍事的に見て「大国」というわけではないが、「核兵器保有していない国は、自国の運命を自分で決定することが出来ない」と考えていたドゴールにとって、フランスが核兵器保有することは「大国」としての地位を手に入れ、「強いフランス」になるための絶対条件であった。

 NATO軍事機構離脱後のフランスの核抑止戦略はフランス本土を一つの「聖域」とした「全方位戦略」と呼ばれる。「量的に劣勢な核戦力でも、報復として敵国に受け入れがたい損害を与えることができるなら大国に対しても抑止力として十分に機能する」「フランスの決意を示すための最終警告として、前線の限定的な目標に対して核兵器を使用する」という考えに沿っており、フランスの防衛はフランス独自の核戦力によって達成されることになった。ただこれについては、仏独和解が進んだ1980年代に入っても、西ドイツ側が「自国内を進軍するWPO軍に対してフランスが核兵器を使用し、西ドイツを荒廃させるのではないか」と心配している(フランス側は西ドイツ内で最終警告のための核攻撃は行わないと後に明言した)ように、周辺国からすれば大きな懸念材料であった。

 アメリカ、ソ連という超大国の間に位置し、独自の核戦力を保有して「全方位防衛戦略」を唱えるフランスは冷戦期間中、両国間の対立を抑えるバランサーとしての役割を手にすることが出来た。対米依存脱却の方針を取り、NATOから離れて独自行動を取ると言っても、西側自由主義陣営の危機の際にはその中心的存在であるアメリカの側に立って事態の収束に努めようとした。1977年にソ連が中距離核ミサイルSS20を欧州地域に配備したことを巡り、1979年、NATOソ連にSS20の撤去を継続して要求すること、それが通らなかった場合は1983年末からアメリカの中距離核ミサイル、パーシングⅡを配備するという「NATO二重決定」を行った。パーシングⅡの受け入れ先である西ドイツでは当然ミサイル配備に反対する声は強く、他の加盟国でも意見が分かれ、NATOは分裂の様相を呈した。ミッテランは野党時代、アメリカのミサイル配備を前提とした決定に反対していたが、大統領就任後は一転、アメリカを支持する形で現実路線に立った交渉を開始した。イギリスとフランスの核兵器保有を理由にソ連が核ミサイル配備を正当化している以上、「ゼロ・オプション(ソ連がSS20を撤去する代わりにアメリカもパーシングⅡの配備を中止する)」を求めるアメリカの側に立ってSS20の撤去を要求し続け、最終的にはパーシングⅡを配備することを支持してソ連に圧力をかけ続けるしかなかった。ミッテランは混乱が治まらない西ドイツに渡り、連邦議会アメリカのパーシングⅡ配備の必要性を訴えた。フランスは自国内へのパーシングⅡの配備を一切認めていなかったのだから、隣国の西ドイツに厄介事を全て押し付けようという何とも身勝手な話ではある。演説が効いたのか、西ドイツは1983年、パーシングⅡ配備を受け入れた。ソ連はこれに対して抗議を行うも、アメリカは欧州地域へのパーシングⅡの配備を予定通り進めた。4年後、長い交渉の末にアメリカとソ連巡航ミサイルおよび弾道ミサイルを含めた中距離核ミサイルを全て放棄することで合意した。後にキッシンジャーアメリ国務長官は「ミッテランは極めて良い同盟者であった」と語っている。大国、多国間同盟の指図を受けないフランス独自の核戦力が有効に機能した事例である。

 しかし、1991年にソ連が崩壊した事でフランスの核兵器の在り方は再検討を余儀なくされる。冷戦期において、フランスの核兵器は自国の権益を脅かす大国への報復を行う抑止力として、そして外交における自由な政治的立場を保障する役割を果たしていたが、ソ連が崩壊した以上、前者の役割は薄くなってしまった。そこでフランスは、従来は核兵器を含めた抑止力の中で二義的だった通常戦力の拡充と、これを重要視する方針を打ち出すと共に、フランスの核兵器にヨーロッパ防衛の意義も与えようとした。

 1995年、フランスは欧州統合が順調に進んでいることを背景に、防衛政策の一案としてフランス(とイギリス)の核兵器をヨーロッパで共有することを提案した。核の傘を「聖域」だけではなく欧州全土にまで広げ、ヨーロッパ全体の防衛に寄与させるというものだ。もちろん核の傘を差しているのはフランス(とイギリス)である。しかし、このフランスの発案に興味を示したのは同じ核保有国であるイギリスのみで、その他の国々は国内の核兵器への反発、アメリカとの関係への懸念、核兵器保有するフランスの覇権的振る舞いを警戒し、結局受け入れられることはなかった。同年に核兵器実験をフランスが再開して世界中から批難されていたこともあって、それから目を逸らす発案ではないかと思われたのも、拒否された原因の1つだろう。だがその後も、フランスの核抑止力をヨーロッパ全体の防衛に寄与させるというフランスの考えが変わることはなく、2001年にはシラク大統領が「ヨーロッパへの大量破壊兵器の脅威はフランスの核抑止の対象となる」との認識を示している。

 なお、NATOの軍事機構を脱退したフランスであったが、1995年にシラク大統領はNATOとの距離を置く方針を修正し、まずNATO軍事委員会への復帰を、翌年には国防省会議と核計画グループへの復帰を表明した。続くサルコジ大統領は2009年にNATO軍事機構への完全復帰を表明している。フランスが軍事機構に復帰することは加盟国から歓迎されたが、フランス国内では軍事行動における自主性が失われるのではないかとの反対意見もあった。ただ、復帰後の軍事行動を見ると、少しも自主性を失ったようには思えないので、神経質すぎるように思う。フランスの核抑止力はフランスの外交における政治的立場の自由を保障するためのカードとして、フランス共和国独立の象徴として、フランスがフランスであり続けるために、今もこれからも必要不可欠な存在である。

 

3. フランスの核戦力

 ざっとフランスの核抑止力の在り方について話したところで、核抑止力を構成する各種兵器についても少し話しておきたい。

 政界に復帰したたドゴールはアメリカやソ連と同様の核抑止力の三本柱―――爆撃機、地上発射型弾道ミサイル、潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)―――の一刻も早い実現を目指した。1964年にミラージュⅢ戦闘機をベースにしたミラージュⅣ戦略爆撃機が、その後1971年にアルビオン基地へS3D地上発射型弾道ミサイルが、それに続いて潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)が配備され、フランスも大国への抑止力としての核戦力を一通り揃えることが出来た。

 これとは別に、最終警告として行う限定的目標への核攻撃用として、AMX-30主力戦車の車体を流用したプリュトン核ミサイル発射機とその後継のアデス核ミサイル発射機、戦略空軍のミラージュ2000Nおよび空母艦載機のシュペール・エタンダール艦上攻撃機が搭載する空中発射型核ミサイルが開発され、順次配備されていった。

 しかし、冷戦終結後、核兵器の在り方を再検討するにあたって、地上核兵器は先制攻撃の目標となりやすいため、フランスおよびヨーロッパの防衛力として機動性と柔軟性があるSLBMと空中発射型核ミサイルのみを保有する事が決定される。1997年にはすでに退役していたプリュトンに続いてアデスが廃棄され、1998年にはS3Dミサイルが解体されている。

 現在、フランスの核戦力は、抑止力としてSLBMを搭載する原子力弾道ミサイル潜水艦が、最終警告用に戦略空軍および原子力空母シャルル・ドゴールのラファール戦闘攻撃機が搭載するASMP空中発射型核ミサイルによって構成されている。以下、原子力弾道ミサイル潜水艦について簡単に振り返ってみよう。

 

 1950年代末期、フランス海軍は原子力攻撃型潜水艦の建造を計画していた。日に日に脅威度が増すロシア潜水艦を確実に撃破するために、より高速かつ長時間の行動が可能な攻撃型原潜の戦力化が期待されていたのである。当初、フランスはイギリスと同様にアメリカ製の原子力炉を使用する予定だった。しかし、ドゴールの挑発に激怒したアメリカがフランスへの原子炉供給を拒否したため、フランス初の原子力潜水艦となるはずだったジムノトはやむなく通常のディーゼル機関を搭載し、SLBM試験艦として竣工することになった。通常、原子力潜水艦の開発は、潜水艦および水上艦の攻撃が主任務の攻撃型潜水艦を開発した後、その実績を反映して、大型の弾道ミサイル潜水艦を開発するのが定石である。しかし、核抑止力の実現を最優先と考えるドゴールは弾道ミサイル潜水艦の開発を先に推し進めた。

 1963年にはアメリカからのポラリスミサイル(アメリカ製SLBM、イギリスも使用)供給を断るのと同時に、フランス初の弾道ミサイル潜水艦であるル・ルドゥタブルの建造が承認され、翌年1番艦が起工されている。肝心のSLBMについては、1968年に最初の型であるM1(射程2400km、500kt核弾頭)がジムノトからの水中発射に成功し、1971年に竣工したル・ルドゥタブルはさっそくM1を搭載して哨戒活動を実施した。その後1980年までに同型艦が4隻、1985年には改良型のランフレクシブルが竣工した。余談になるが、ポラリスを搭載したイギリス初の原子力戦略型潜水艦であるレゾリューション級は1967~69年にかけて4隻が竣工している。ル・ルドゥタブル級の竣工によって、ようやくフランス海軍は政府および国民から国家防衛に大きな役割を果たす重要な組織と認識されるようになった。海軍が設立されてから400年余り、非常に長い時間がかかったものである。ル・ルドゥタブル級は1番艦のル・ルドゥタブルから6番艦のランフレクシブルまで約15年の歳月が流れており、水中排水量は各艦で差異があるが約9,000t、全体の配置は船体のほぼ中央にSLBMを格納する16基の発射筒を二列に並べる基本的なスタイルだ。アメリカ初の原子力弾道ミサイル潜水艦、ジョージ・ワシントン級と外観がよく似ている。機関には、フランスが独自に開発した―――彼らが誇りとするものだ―――原子炉1基とタービン発電機2基からなる原子力ターボエレクトリックを採用し、水中速力25ktを発揮する。その他、自衛のために533mm魚雷発射管を4門装備し、魚雷18本を搭載した。SLBMはM1に続いて射程を伸ばしたM2、ミサイル防衛網突破能力の向上を図ったM20が開発されたが、M20になっても射程が3,000kmほどしかなく、フランス近海からソ連領内への報復攻撃は難しかったため射程を4,000kmまで延伸したM4が後に開発された。80年代後半にかけてル・ルドゥタブル級各艦への搭載と、そのための近代化改修が行われている。射程が向上したSLBMの搭載により、ル・ルドゥタブル級は自国の対潜部隊に保護された安全な海域で活動する事が可能になって核抑止力は大いに向上した。1980年代後半は常時3隻が各々哨戒していたとされる。

 1990年代に入り、フランスは第2世代となるル・トリオンファン級の建造を開始した。本級もル・ルドゥタブル級と同じく当初は6隻建造する予定だったが、資金難を理由に4隻へ減らされている。ル・ルドゥタブル級より大型になり、水中排水量は14,565t、前級と同様に原子力ターボエレクトリック機関を搭載し、水中速力も同じく25kt、自衛用に533mm魚雷発射管4門を装備し、魚雷に加えてエグゾセ対艦ミサイルを発射することも可能となっている。1997年に1番艦のル・トリオンファンが、2010年に4番艦のル・テリブルが竣工し、ル・ルドゥタブル級との交代を完了した。SLBMは当初、射程6,000kmのM45を搭載していたが、現在最新のM51シリーズ(射程9,000~10,000km)への換装が進められている。同級の想定寿命は40年ほどとなっているので、これからも長く核抑止力の中心を担う存在であり続けるだろう。

 

4. おわりに

 以上、長々とフランスの核について書いてみたがいかがだっただろうか。大国になれなかったフランスという国が、周りと同じ向きに歩くことを嫌い、世界のリーダーがすでに手にしていた高価な道具を長い時間をかけて自力で作り上げ、それを後から周りに見せつけて強がっているだけのように見えるかもしれない。フランスはNATOという同盟関係の中で大国(アメリカ)の意見にただ従うだけの存在になることを拒否し、外交における政治的立場の自由を失わないために核兵器を独自で開発し、現在も保有し続けている。実際、世界に190近くある国の中で、他国の意見に左右されることなく、自国の政治的、軍事的行動を自国で決定する事が可能な国は少ないだろう。そう考えればフランスの姿勢の中には我々がいくつか参考とするべきものがないとは言えない。

 もちろん、日本もフランスのように核兵器保有すべきと主張するわけではない。フランスと日本では地理、歴史、文化、国際的立場、何もかもが異なる。さらに言えば、国内の合意がまとまりにくく、唯一の被爆国であり、未だ軍事力に対する反発が激しい日本で、核兵器保有など受け入れられるはずもない。この国が抱えるアレルギーを治すことは永遠にできないだろう。重要なのは、フランスをはじめとした他国の行動を称賛あるいは批難という「0か100」のような見方ではなく、比較対象として冷静に分析することによって、相対的に見えてくる自国の状態を理解する事ではないだろうか。

 フランスは大国ではない。それはフランス自身がよく分かっているはずだ。核兵器保有によって、アメリカとは一定の距離を置くという姿勢を取り続けていても、同国唯一の空母シャルル・ドゴールのカタパルトと搭載する早期警戒機がアメリカ製である事は大国になれなかったフランスの限界を如実に示している。ただ、大国ではないフランスが、長い時間をかけてアメリカに対して「NO」と直接言える程の立場を獲得し、それをこれからも維持する努力を全く怠っていないことも明確な事実である。

 「身勝手なフランス」はこれからも続くだろう。フランスが生み出した二つ目の太陽は、アメリカやロシアに比べれば、大きさも明るさもはるかに劣る。それでも、フランスが歩いていく険しい道を、確実に照らし続けている。

 

今回、参考および引用した文献は以下の通りです。

 

 山田文比古「フランスの外交力」集英社新書、2009年
「戦闘車輌大百科」アルゴノート社、2019年
「軍用機パーフェクトBOOK2 第二次大戦後から最新鋭機まで582」コスミック出版、2009年

「特集・フランス海軍」(世界の艦船 1987年12月号 NO.387)
「特集・フランスの潜水艦」(世界の艦船 1992年9月号 NO.455)
「特集・フランス軍艦の戦後史」(世界の艦船 1997年8月号 NO.527)
「イギリス潜水艦史」(世界の艦船 1997年9月号増刊 NO.529)
「特集・世界の潜水艦」(世界の艦船 2020年4月特大号 NO.921)
「ネーバル・レビュー2020」(世界の艦船 2020年4月号増刊 NO.922)
「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHTING SHIPS 1947-1982 PARTI:THE WESTERN POWERS」

 

編集履歴

2020/5/6 投稿

2020/5/12 項目名、要約引用箇所追記