フランス海軍通史 第二回:王立海軍の発展

第一回:フランスの海洋進出と海軍の創設」の続きです。

 

2-1. コルベール登場

 リシュリューのもとで誕生したフランス海軍であったが、彼は内政と外交に忙殺されており、より具体的な発展を遂げるためにはリシュリューの後を継いだマザランの後に登場するジャン・バティスト・コルベールを待たなければならなかった。コルベールは商人の家に生まれ、商業や金融などの仕事を経て軍務官のポストに就任し、その能力を認められて、マザランが死の直前に王に推薦したことで財務監察官となった、ブルジョワ階級の人である。マザランの後継と見られていた上司のフーケ財務総監を謀略によって公職から追放することに成功し、彼に代わって財務総監のポストに就任して実権を握った。「太陽王」の異名を持つルイ14世(在位1643~1715年)のもと、1669年には財務総監に加えて宮内卿海軍卿を兼ねたコルベールは「王の栄光」と「国家の富」を目標として、イギリスやオランダをモデルとした海軍力の増強を行い、リシュリューが取り組もうとしていた重商主義政策を更に推し進めようとした。

 

2-2. 海軍工廠の設立と海軍の増強

 コルベールがフランス政治の表舞台に立ったとき、フランスの戦列艦は合計30隻ほどしかなく、100隻近く保有するイギリス、オランダと比べれば文字通り雲泥の差があった。また、フランスで使用する大型船舶はそのすべてが国内で建造されたものではなく、当時ヨーロッパの海運を手中に収めていたオランダで建造されたものも数多くあった。強力な常備艦隊の保有によって対外貿易の発展を保障し、「国家の富」を増幅させようとしたコルベールにとって、この状況は看過できるものではなかった。彼はまず、フランス沿岸部の実態を把握して、軍港の建設に適した土地を検討した。当時のフランス沿岸部の港は大きく三つに分類することが出来る。一つ目は食糧や水など消耗品の補給や、事故によって損傷した船体を修理するための「補給港(避難港)」。二つ目はタラ、ニシン、クジラなどを求め、北海などでの沿岸漁業から北米東海岸北極海での遠洋漁業を営む漁師たちの「漁港」。そして三つ目は地域貿易と対外貿易を営む商人たちの「商港」である。貿易の発展と海軍の増強を国家単位で企図するのであれば、三つ目の商港、その中で特に発展している港の拡充を促しても良いと思うが、リシュリューの時代にそれはあまり進められなかった。まず、先に述べたように沿岸部の港湾都市は必ずしも王権に服従していたわけではなかった。また、コルベールはそうでもなかったが、リシュリューは新教徒が多い港湾都市を支援することを嫌い、自らが総督を兼ねていたル・アーブルやブレストなどの発展を促していた。さらに、こうした商港は自然にできた地形を活かしたいわゆる天然港が多く、船舶の大型化に伴って出入港のための設備拡充や浚渫作業にも限界があったのである。こうした事情から、商港は貿易に特化させ、軍艦の建造や整備を専門的に行う軍港(海軍工廠と同義)を新たに整備しなければならないとコルベールは認識していた。海軍先進国であるイギリスやオランダは、それぞれチャタムやアムステルダムなどに大規模な造船所を有しており、戦時には民間造船所へ艦船を注文して艦隊の増強を図ることも可能であったが、フランスでは先に触れた港湾都市の性格からそれは難しいように思われた。艦艇を停泊させるだけでなく、艦艇の建造、整備、解体そして大砲や砲弾などの製造工場も有する軍事複合産業体とも言うべき海軍工廠を、国家の管理下で独自に保有しておきたいというのがコルベールの思いであった。

 海軍工廠としての機能を発揮するための条件は、十分な水深、良好な風向き、出入港が容易な広い停泊地、船台やドック、兵器工場、倉庫のための広い土地、物資調達を行う後背地への安全なアクセス、と数多い。また、海が比較的穏やかな地中海方面では特別問題視されることはなかったが、大西洋方面の港は偏西風の影響で波が高く、また全般的に潮差が大きかった。例えばル・アーブルの潮差は8メートル、サン・マロは16メートルにも達する。このように潮差が大きい港では満ち潮に乗って入港し、引き潮に乗って出港しなければならない。底質によっては潮差を無視して乗り上げることも可能だが、やはり運用上の制約は大きい。岸壁なども大きな潮差に応じたものを建設しなければならなくなる。余談だが、古くから地中海貿易が栄えたのはこうした過酷な自然条件を、地中海側では深く考慮しなくても良かったためである。逆に、こうした自然条件下での建築のために大西洋側での海洋土木建築技術は発展した。今でも海洋土木建築界におけるオランダの地位は揺るがない。

 軍港建設地に適した場所を探すにあたって、コルベールは先述した条件だけではなく、沖合の島嶼や隣接する河川、沿岸部で生活する人々の人口や職業(商人、船主、船員、漁師など。商人と船主は兼任していることが多かった)なども調査の対象に含めた。電話もメールもない時代にこれだけの情報を集めるのは困難を極めただろうが、新しく合理的な、フランスのための海洋政策を打ち立てようというコルベールの強い意志を感じ取ることができる。こうした一連の作業は、海洋政策とは別に、各地に赴任している地方長官に対して、人口、食糧、住居、商業、産業などの実地調査を求める「質問状」を送り、回収した質問状を一つ一つ細かに分析することでフランスの総合的な国力を把握し、効率的な政策を進めようとしていたコルベールにとって苦ではなかった。若い時から数字に慣れ親しんでいたコルベールは統計の力を信じていたのである。

 入念な調査の結果、海軍工廠の建設地は大西洋側ではロシュフォールが、地中海側ではトゥーロンが選ばれた。大西洋側の候補地としてはリシュリューが推していたル・アーブルやブレストが有力候補であったが、前者は停泊地の狭さが、後者はドック用地が確保できずまた風が強いことを理由に外された。ル・アーブルに関してはイギリスやオランダに近すぎるという防衛上の理由も関係している。ロシュフォールの工事は1671年にひとまず完了するが、入港しようとしていた船舶が船底を損傷する事故を起こすなどしたため、一度は選定から外されたブレストにも海軍工廠を建設することが決定し、こちらは1670~1680年代に完成した。最新の造船技術導入のためにオランダやデンマークから船舶を購入し、それを参考にしながらロシュフォール、ブレスト、トゥーロンの三海軍工廠で艦艇が建造されていった。コルベールは海軍工廠の新設と並行して戦列艦を合計120隻建造、保有することを計画していたが、早くも1670年初頭にはこの目標を概ね達成することに成功する。上記の作業を終えたコルベールは、「船舶の建造に必要なものはすべて国内に整備されております。陛下は艦船のために外国を頼る必要はありません」とルイ14世に対して誇らしげに語った。フランスは異例とも言えるスピードで、イギリス、オランダに匹敵する大海軍国の地位についたのである。

 

2-3. 船員の確保

 ただ、兵器を造っても動かす人がいなければ意味はない。建造した戦列艦を動かすための船員手配について、例えば100隻ほどの戦列艦を動かすには4~5万人ほどの船員が必要となる。従来はフランスもイギリスと同様に、沿岸部に住む貧困者などを戦時に強制徴用するやり方(オランダは一般的に志願制であった)を採用していたが、大量の貧困者を雇い入れて働かせることを非効率的ではないかと考えていたコルベールは、「クラス制(海員徴募制)」と呼ばれる制度を導入した。これは、海岸から12~16km圏内の内陸部に住む18歳から60歳の漁師や水夫を台帳に登録しておき、その一定数を数年のサイクルで対外貿易に従事する商船で働くことを定めたものである。こうしておけば、戦時でも長期航海の海技を習得している船員を容易に確保することが可能であり、国としても長期的に見てコストを抑えられるので合理的な制度であるとコルベールは考えていた。しかし、当時の船員の仕事は、事故や疫病で死ぬ恐怖と常に隣り合わせであり、また対外貿易に就く場合は一定期間遠洋漁業などに出ることを制限されていたため、このクラス制による台帳登録や招集から逃れようとする漁師や水夫は多かった。コルベールもこれには理解を示し、免税制度や医療保障などの待遇を彼らに与えたが、それでも漁師や水夫には大変不満な制度であった。のちに登録する地域範囲を拡大することになるのだが、それでも船員の確保には不安が残った。

 

2-4. 国内産業と貿易の奨励

 こうした海軍工廠の新設や船員の確保と合わせて、コルベールは重商主義政策の根幹となる国内産業の保護、育成に力を入れた。フランスは古くから農業を主要な産業としていたが、その生産性は低かった。一部では絹織物などを営んでいる地域もあったが、織物工業が発展していたイギリスやオランダのような競争力はなく、両国に負けないような産業を国内に持つことが急務であった。政府主導で外国から一流の職人を(極めて合理的に)招き入れ、製作所(工場)を再編あるいは新設し、外国からの輸入に頼っていた数多くの製品の国産化を奨励し、同時にイギリスやオランダの商品に高い関税をつけた。国内産業の育成自体はアンリ4世の時代から行われており、コルベール独自の発案というわけではないが、彼の指導下でより強化され、絹織物、タペストリー、シーツ、鋼材など非常に多くの製品が国内製作所で取り扱われるようになった。シトロエンプジョーといった自動車向け製品を含めた数多くのガラス製品を供給しているサン・ゴバン社もこの王政下で設立されたガラス製作所が前身である。

 国内産業の育成に努める傍ら、コルベールは国内の貴族たちに国際貿易、海上貿易に従事する卸売商人になることも勧めている。当時の卸売商人は、リシュリューやコルベールによれば「高貴」な職業につく人物であり、逆に小売商人は「卑しい」人物とされていた。卸売業が「高貴」とされていたのは、数ヶ月、数年単位で取引を考えなければならない卸売商人は大量の資本を持っており、自ら船舶の建造に関わることもあれば、フランス語だけでなく英語、オランダ語、ドイツ語、スペイン語といった多くの言語を使い、船員の手配や契約書類作成などの事務作業をこなし、各地の情勢を知っている見識深い人間であるという考えが強かったからである。こうした考えはフランスだけでなく、イギリスや北ドイツでも同様の認識がされており、英語では卸売商人は「マーチャント」、小売商人は「トレイズマン」と区別されている。コルベールはこの卸売業による特権を貴族に認めた。国内にはいまだ影響力を持つ名門家系の貴族が残っており、船舶の建造に必要な資材を供給する森林や製鉄所の数多くを、彼らが領有していたのと無関係ではない。また当時、海軍先進国であったイギリスは、船舶の新造に国内で生産される木材や鉄の供給が追いつかなくなったため、林業と製鉄業が盛んなスウェーデンやロシアから盛んに木材と鉄を購入しており、フランスもイギリスと同様にスウェーデンから鉄を購入していた(しかし、イギリスとオランダの目の前を通って鉄という重要資源を輸入するのは平時ならばともかく戦時には好ましくなかった)。エリート層である貴族を国際貿易に従事させ、林業と製鉄業の活性化を促し、安定した供給体制の確立に寄与することを望んでいたものと考えられる。

 

2-5. 海運業の保護と海外市場の獲得

 さらに、コルベールはオランダ船やイギリス船、そして両国製品の排除を目的に、本土と海外の貿易に従事するすべての船舶はフランス国内で建造されたものでなければならないとする「排他制」を施行し、海運業の育成にも力を入れた。オランダに比して経済後進国であったイギリスが、自国の海運業を保護、育成するためにオランダ船の排除を目的とした「航海法」を整備したことと似ている。フランス南西部の大商港、ボルドーからワインが大量にヨーロッパ諸国や植民地に輸出され、貿易量が増加したとしても輸送を担うのがオランダ船であればその利益はフランスのものとはならない。海上貿易量の増加は、イコール海運業の発展を意味するものではなく、むしろオランダ船がなければ海上貿易ができないという状況になってしまう。例をあげると、17世紀後半、凶作によってフランスを含めた西欧諸国は食糧危機に陥ったが、この危機を救ったのはポーランド・リトアニア共和国穀物であった。大規模な農園を持つポーランド・リトアニア共和国内の貴族たちは、余剰分の穀物を西欧諸国に販売することで大きな利益を得たが、その輸送を担ったのがオランダ船であった。海賊の襲撃を心配しなくても良いバルト海で使用する商船は、大きな四角形に近い船倉を備え荷役効率が高く、自衛用の大砲を積む必要もなかったためコストは格段に低かった。ポーランド・リトアニア共和国穀物を積んだオランダ船は一度アムステルダムに寄港し、そこから西欧諸国に再輸出する。ポーランド・リトアニア共和国の貴族は、海運業が発展していたオランダ船に穀物輸送を一任したが、これは同国が経済的にオランダに従属することを意味したのである。

 フランスは、フランソワ1世、アンリ4世リシュリューと植民地政策を国家事業の中に度々組み入れていたが、コルベールが望むような経済活動のためにはまだ不十分なものであった。リシュリューは、自身が設立したヌーヴェル・フランス百人会社や、複数の港湾都市の商人によって設立された会社へ、貿易と司法財政上の特権を与えていた。特権を与えることにより、植民地建設と経済活動を国家の統制下に置き、植民者と商人にそれに応じた利益を与えることによって、経済活動の活性化をリシュリューは考えていた。ただ本来であれば、リシュリューは複数の会社に特権を与えるのではなく、これらを複合した巨大な単一貿易会社に特権を与え、それを国家の管理下に置きたかったが、実現できなかった。ロンドンやアムステルダムといった経済、貿易の一大中心地があるイギリスやオランダに対し、同程度の規模の商港が沿岸部に多数点在するフランスでは、誰が主導権を握るかといった港湾都市の利害が対立し、そうした貿易会社設立のための妥協が一切できなかったからである。

 また、当時フランスが保有していた植民地、フランソワ1世の時代から植民が進められたカナダ(ヌーヴェル・フランス)含めた北米植民地の経済規模も問題であった。カナダの特産品は、世界屈指の漁場であるニューファンドランド近海のタラ、そしてビーバー、カワウソ、テンといった現地に住む動物の毛皮である。栄養価が高く、長期保存にも適した塩漬けタラは食料として以前から需要があったが、16世紀後半にはビーバーやカワウソの毛皮を使った帽子がパリで大人気となり、その需要は増大した。大量の毛皮を入手したいフランスは、自国の毛皮取引人を雇って先住民の集落に送り込んでいたが、カナダの開発はその厳しい自然環境もあって中々進んでいなかった。植民当初は、カトリックの布教に燃える修道会が中心となって、開墾と集落の建設、先住民の改宗などで一定の成果を挙げていたが、イロコイ族など先住民との戦いや食糧確保の難しさもあって多くの人命が失われていた。その開発の厳しさは、1663年から十年間にわたり、王権が人口の増加を目的としてフランスの慈善施設に収容されていた女性たちに持参金を持たせ、カナダ現地の男性と結婚させるという「王の娘」という策を取らざるを得なかったほどである。1680年代後半にはカヴリエ・ド・ラサールがミシシッピ川(コルベール川と呼んでいた)を南下してルイジアナ(「ルイの土地」を意味する)植民地の基礎を築いたが、ここでも人口の不足に悩まされ、流刑者や貧困者の移送に頼っている。

 コルベールはリシュリューと同じように自国の貿易振興のため、喜望峰以東、アジアでの貿易を行う東インド会社と、アフリカでの奴隷貿易を中心に大西洋での貿易を行う西インド会社、二つの貿易独占会社を1664年に設立している。リシュリューが果たせなかった複数の貿易会社の統合は、コルベールの強い指導によって進められた。コルベールは「フランス王国は、アジア交易の利益を手にすべきです。イギリス人とオランダ人だけがそれを利用している現状を打破すべきです」とルイ14世に進言し、東インド会社の設立を特に推し進めている。先行するイギリスやオランダの東インド会社が、商人主導のもとでスタートし、それをのちに国家が追認したのと異なり、フランスの東インド会社は最初から国家によって設立されたのが特徴である。東インド会社設立の資本金は、その五割近くが国王や王族、貴族によって賄われ、商人の出資額は二割にも達しておらず、公的な行政機関というべきものであった。公金による安定した資本によって、投資が容易に行われ、経済活動が活性化することをコルベールは願っていた。なお、資本金の割合は西インド会社も同様である。東インド貿易の拠点としては、インド南部にポンディシェリー、ベンガル地方シャンデルナゴルを獲得し、インド洋南部にはブルボン島(現在のレユニオン島)とフランス島(現在のモーリシャス島)の二つの中継地点を設けている。また、東インド会社との貿易を目的とした港湾都市として、ブルターニュ地方に「物産集積所」を設立し、同地はロリアンという名前で本国側でのアジア貿易の拠点となった。ロリアンL'Orientが、フランス語で「東方」を意味することからも、同港がアジアとの貿易を行うために肝煎りで新設されたのがよく分かる。アジアの特産品である香辛料、茶、織物、陶磁器などは銀と交換しなければならなかったので、基本的に貿易赤字であったが、この損失はフランス東インド会社の船を使用した代行輸送事業で得られる収入と、政府からの公金で補填していた。

 次に、西インド会社である。フランスは1627年にアンティル諸島のサン・クリストフ島に入植を開始し、1635年にはマルティニーク島グアドループ島に拠点を移して本国から来た年季奉公人のもとでタバコなどの栽培を地道に行っていた。しかし1650年頃、ブラジルを追われたオランダ人が砂糖栽培の技術を広めたことで変化が訪れる。価値が高い砂糖の生産をさっそく入植者たちは開始したが、亜熱帯気候の同地域で労働をすることに年季奉公人は向いておらず、彼らを大量に雇い入れることも難しかったので、アフリカの黒人奴隷で肩代わりさせることになったのである。当初はオランダやポルトガルから奴隷を購入していたフランスであったが、他国に依存しない貿易活動を求めるコルベールは自前の奴隷調達を目指して西インド会社を設立し、同社に奴隷貿易の特権を与えた。また、奴隷商人との取引のためにアフリカのセネガルギニアに商館や要塞を建設している。

 

2-6. 王立海軍に求めたもの

 「コルベルティスム」といわれる一連の政策を進めていったコルベールであったが、120隻近い戦列艦を揃えたフランス海軍に彼が求めたのは何だったのだろうか。財務総監を務めていたコルベールの最大の仕事は、リシュリューマザランの時代から続いている財政難を建て直すことであった。そのために前述した国内産業の育成や排他制などの重商主義政策を実行したのだが、彼が最も拒否したかったのは、多額の出費と借金を伴う周辺諸国との戦争であった。ルイ14世の下で陸軍卿を務めたルーヴォワとコルベールはライバル関係にあったものの、「王の栄光」を求めるという点では相違なかった。ただ、ルーヴォワが戦争を支持していたのに対してコルベールはそれを望まず、フランス国内で建造された艦艇で編成される大艦隊によって「王の栄光」を実現しようとしたと考えられる。

 強力な常備艦隊によって、海上貿易を保護、発展させて「国家の富」を増幅し、それによってまた艦隊は強化され海上貿易もさらに発展する。貿易の促進によって国内産業は活性化し、(将来的には戦争をするための)経済基盤も整う。コルベールがフランス海軍に求めたのはイギリスやオランダの大艦隊に正面から決戦を挑むことではなく、インドやアメリカなど国際貿易に従事する商船の保護(商人の軍事的負担の軽減)、島嶼などを拠点とする海賊の掃討、そして地中海と大西洋に強力な艦隊を置くことで、イギリスやオランダを牽制し戦争を回避することだった。敵艦隊との決戦は、フランスに直接危機がおよぶ攻勢を阻止するためのものであり、戦闘する必要がないなら基本的に避けるという点でフランス海軍の戦術は一貫していた。重要なのはあくまでも平時における活動で、言うなればフランス海軍は、王によって精巧かつ頑丈な鎧と研ぎ澄まされた剣を与えられた騎士のような存在であったが、敵側の騎士と「正面から戦うこと」は望まれていなかったのである。

 

次回は「太陽王とフランス海軍」です。

 

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