フランス海軍通史 第四回:王立海軍の危機

前回(第三回:太陽王とフランス海軍)の続きです。

 

 

4-1. 束の間の平和と大西洋貿易の発展

 1715年、人生の大半を戦争に費やしたルイ14世は76歳でこの世を去った。当時まだ五歳だったルイ14世の曾孫であるアンジュー公ルイがルイ15世(在位1715年~1774年)として即位する。ただ、幼いルイ15世に統治は不可能だったので、ルイ14世の甥であるオルレアン公フィリップが摂政を務めることになった。1723年にオルレアン公フィリップは亡くなり、同時にルイ15世成人年齢に達したが彼は政治に関心が薄く、自身の教育係を務めていたフルーリー枢機卿に多くを委ねた。ルイ15世が即位してから約30年間、1733年のポーランド継承戦争を除けば大きな戦争はなく、フルーリーがイギリスとの協調路線を重視したこともあって比較的平和な時代が続いた。この時期、大西洋における貿易は目覚ましい発展を遂げた。

 1715年から1720年のフランスの輸出額は年平均9080万リーブルだったが、1787年から1789年には4億4820万リーブルと5倍にまで増加した。また、輸入額では6430万リーブルから5億4920万リーブルと8倍ほどの増加を見せている。フランスの大西洋貿易への参加が遅く、元々海外との貿易量が少なかったことを考えても、同時期のイギリスの貿易量の上昇が2倍ほどであることと比較すると、フランスの発展は著しい。この発展の立役者は、フランス植民地で最も重要だったカリブ海サン・ドマング島と、フランス南部に位置する国内最大の商港であり、国際貿易港としての役割も持っていたボルドーであった。

 古くはヨーロッパで砂糖と言えば、ポルトガル領ブラジルのものを意味したが、その栽培方法が商人の手によってオランダ、イギリス、フランスでも知られるようになると、各国(の商人)はその利益にありつこうと砂糖栽培に躍起になった。スペインとの間でその領有が1697年に正式に認められたサン・ドマング島では、フランス入植者と黒人奴隷によって1650年頃から砂糖栽培が行われており、1714年には7000トンだった同島の砂糖生産量は、1750年に4万トン、1789年には8万トンと増加していき、砂糖栽培の一大中心地となった。 元々、カリブ海や北米植民地との貿易はナントが担っていたが、古くからワインの輸出港として栄えていたボルドーが徐々にその役割を増大させていった。衣服、織物、銃器などの商品を積んだボルドー船は、西アフリカで商品を売るのと同時に現地の奴隷商人から奴隷を購入する。そして奴隷を積み込んだボルドー船はサン・ドマング島で奴隷を売りさばき、同島の砂糖を積み込んでボルドーに帰港する。ボルドーは銃器、奴隷、砂糖を主軸とした三角貿易の中心地であった。また、イギリスで肉類やバターをワインと交換する形で積み込み、それらをサン・ドマング島で販売したり、直接ワインをサン・ドマング島に送って砂糖を手に入れることもあった。現地に移り住んだフランス人にとって、ワインは故郷を思い出せる最高の商品であり、需要も高かった。奴隷貿易についてはボルドーだけでは供給が足りず、ナントがそれを補う形で参加している。

 貿易の発展によって原材料の入手が容易になったこともあり、国内の織物工業は発展した。また、過大評価はできないが農業に関しても生産性が向上し、織物や穀物の国内輸送のために道路が整備され、物資の流通は以前より円滑になった。ルイ14世統治下のフランスでは(フランスのせいだが)戦争が度重なり、経済不況も合わさって人口は横ばいであったが、この年代以降、乳幼児死亡率が減少し、人口は増加に転じた。1715年頃に2000万人ほどであった人口は、1789年には2800万人ほどになっている。ボルドーサン・ドマング島はフランスの大西洋貿易発展に寄与し、それに合わせて国内も社会的、経済的に成長が見られた。

 ただ、この大西洋貿易の発展はフランスの発展に全面的に貢献したわけではない。フランスでは植民地から輸入した砂糖の六割ほどはハンブルクなど外国に再輸出されていた。ハンブルクにある製糖工場で加工された砂糖は、アムステルダムを通じてヨーロッパ諸国にまた再輸出される。フランスではワインに加えて、コーヒーを飲む風習が広まっていたが、砂糖を大量に消費することはなかった。イギリスでは、植民地から輸入される高額の紅茶に、これまた高額な砂糖を入れて飲むことが上流階級のステータスシンボルになっており、中産階級の人々はこの上流階級のステータスシンボルである「紅茶と砂糖」に憧れた。経済成長によって豊かになった彼らは、同様の振る舞いをするべく紅茶と砂糖を購入し、次第に紅茶文化は庶民にまで根付くようになる。イギリスが輸入した砂糖の大部分が国内で消費されたのにはそうした背景があった。ハンブルクやオランダで加工されたフランス産の砂糖が、イギリス国内で消費されたかは定かではないが、フランスの大西洋貿易は国内ではなく、皮肉なことにオランダやハンブルク、イギリスといった他国の経済発展に寄与したと言える。

 コルベールがかつて打ち出した政策こと「コルベルティスム」は、繊維品の輸出拡大と、対外貿易におけるオランダの排除、造船・海運業の発展、と一定の効果はあったが、彼が望んでいた効果は十分に得られなかった。王立製作所などの産業に関しても規格統一は完全なものにはならず、対外貿易に関する独占会社の存在は各地の港湾都市の商人から強く反対されていた。オランダやイギリスの排除を目的とした排他制も完全には機能せず、奴隷貿易を行っていた特権会社が度々破産に追い込まれたのも商人による密貿易が止まなかったためである。自由放任主義(国家の経済、産業に対する介入を排して自由な競争により経済活動を活性化し、国富を増大させる思想)の広がりもあってこうした規制への批判は厳しくなり、王権も商人に自由に取引をさせた方が利益向上につながることを認め、この平和な期間に貿易独占権は廃止されるか完全に名目上のものになった。自由な精神を持つ商人を、国家のために活動させるのは困難であった。

 

4-2. オーストリア継承戦争王立海軍

 1740年、ハプスブルク家のカール6世(神聖ローマ皇帝)が死去し、直系の男子がいなかったため娘のマリア・テレジア家督を相続したが、これにザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯、プロイセン王は異議を唱えた。プロイセン王フリードリヒ2世はこの機に乗じて領土の拡大を図り、資源の豊富なシュレジェンに侵攻。プロイセン側にはザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯などが味方につき、イギリスはオーストリアを支援した。1742年にオーストリアプロイセンは和睦し、シュレジェンの一部をフリードリヒ2世は領有することになったが、2年後の第二次シュレジェン侵攻によってフリードリヒ2世のシュレジェン領有は決定的なものとなった。この間、イギリスとフランスは戦争をしていなかったが、1743年にフルーリー枢機卿が死亡したことで対英協調路線は転換され、1744年、フランスはイギリスに宣戦布告した。この戦争はジョージ王戦争と言われ、イギリスとフランス両国の植民地が主要な戦場となった。1748年、先のシュレジェン戦争、ジョージ王戦争の講和がアーヘンで締結された。シュレジェンプロイセンに、パルマピアチェンツァがスペインに、ロンバルディアサルデーニャ王国に譲渡されることになった。フランスとイギリスは所有する植民地の一部を交換するに留まり、この一連の戦争(オーストリア継承戦争とも)でフランスが手にしたものは殆どなかった。

 この戦争で、フランス海軍はイギリス海軍に苦汁を舐めさせられることになった。少し時計の針を戻すが、皮肉にもルイ14世の戦争で、イギリスと同等の戦列艦を揃えるよりも、私掠船活動の方がイギリスを苦しめることが証明されてしまっていた。さらに、フルーリー枢機卿のイギリスとの協調路線もあって政府内における海軍への関心は低くなっており、フランス海軍の戦列艦は最盛期に比べると半分ほどまでに減少していた。それでも依然として平時における商船の保護や海賊の掃討は海軍の重要な任務であったため、以前より一回り小さい戦列艦を中心に建造することによって艦隊の縮小に対応しつつ、個艦能力の向上と運用の効率化を図ったのがこの時期のフランス海軍の特徴であった。1733年、先のユトレヒト条約で失ったジブラルタルシチリアを取り戻すことなどを目的に、同じブルボンの王冠を戴くフランスとスペインは「家族協定」を締結した。この協定はその後も何度か更新され、スペインとの結びつきを深めたフランスは、中南米植民地の活用と海軍力の増強をスペインに促している。スペインはフランスで確立されていた絶対王政モデルを導入して国王権力を強化し、今まで手付かずとなっていた国内の改革に取り組んだ。フェロル、カディスとスペイン各地に近代的な造船所を設立してアメリカ植民地との通商路を保護するための艦隊整備を国家主導で実施している。フランス海軍は、スペイン海軍と手を組めば強大なイギリス海軍に対抗するのも不可能ではないと一抹の期待を持っていたが、共同作戦の実施は現実的には難しかった。

 1744年に戦争が発生したとき、カリブ海植民地ではイギリスがジャマイカのポート・ロイヤルを、フランスがマルティニーク島のポート・ロワイヤルを主要拠点として睨み合っていた。当初はフランス優位であったが、後に艦隊の支援を受けたイギリスが反攻に転じ、1745年には30隻のフランス船団が捕獲されている。北米植民地では、私掠船の活動拠点でもあったフランス領ケープ・ブレトン島のルイスバーグが、マサチューセッツ総督が募った義勇軍と、本国から派遣されたイギリス軍によって陥落してしまった。ルイスバーグの陥落によって付近を航行するイギリス商船の航行の安全は保障されることになった。フランスは陥落したルイスバーグの奪還を目指したが、防備を固めた同地を攻略するために必要な兵力を送ることができなかった。

 ジョージ王戦争では植民地だけでなく、イギリスとフランスの近海でも海戦が起きた。1747年、優勢なイギリス艦隊によって、フランス船団とその護衛艦隊が襲撃された第一次・第二次フィニステレ(「地の果て」を意味する)の海戦では、フランスはどちらも敗北することになった。第一次フィニステレ海戦では護衛艦隊13隻のうち12隻が捕獲され、船団も38隻中18隻が捕獲された。続く第二次フィニステレの海戦では、フランス側の司令官が船団を早めに退避させ、護衛艦隊の反撃を受けたイギリス艦隊が追撃を諦めたことで船団は無傷だったが、フランスの護衛艦隊10隻のうち6隻が捕獲された。この時に捕獲したフランス戦列艦の性能に高さにイギリスは関心を示し、のちに同種艦の建造を行っている。

 どちらも、フランス海軍の保有する艦艇の絶対数が少なかったことが敗因であった。イギリスはコルベールの時代から、フランス艦隊によるイギリス艦隊壊滅とそれに続くブリテン島侵攻、そして私掠船による通商破壊作戦にどのように対処するかに苦慮していたが、最終的に海上封鎖という戦略をとった。これは、フランスの主要軍港であるブレストおよびトゥーロン近くの島嶼を拠点にフランス艦隊や船団を監視し、発見すれば戦列艦による封鎖線を敷いて彼らが出入港できないようにするというものである。先に述べたとおり、フランス海軍の戦術は基本的に守勢的なものであった。フランス艦隊を撃滅することを目的とするイギリス艦隊が、追撃しやすいよう風上側に陣取ることが多かったのに対し、フランス艦隊がいつでも戦闘を回避できるよう進んで風下側に選んだことからもそれは明らかである。縮小されたフランス艦隊が、大量のイギリス戦列艦による封鎖を突破することは困難であり、植民地に送る兵士を載せた船団も、それを護衛する戦力も十分に用意できなかった。

 

4-3. 七年戦争王立海軍

 これはのちのフレンチ・インディアン戦争に続く七年戦争でも見られた光景であった。1753年、オハイオ川西部の領有権を主張した現地のフランス総督は同地に要塞を築き始めた。翌年、イギリス植民地ヴァージニアの総督は民兵を集めて先制攻撃を仕掛けたが、フランス軍に敗北し降伏してしまう。この敗北の知らせを受けたイギリス本国は北米に増援部隊を派遣したが、フランス軍とカナダ民兵、フランス側についたインディアンによる奇襲を受けて1000人近くが負傷した。北米植民地における戦闘報告を受け取ったフランスはブレストとロシュフォールに遠征軍を集結させ、イギリスは新たに戦列艦35隻を建造した。北米植民地の緊張は高まったが、イギリスはこの植民地における戦闘を局地的紛争としてしか見ておらず、フランスもオーストリア継承戦争後の平和を手放したくはなかったので両国が直接戦争に訴えることはなかった。しかし、ヨーロッパの情勢変化が再び両国を戦争に向かわせることになる。オーストリア継承戦争の際にイギリスがオーストリアを支援したのは、国王の母国であるハノーヴァーがプロイセンに侵攻されるのを防ぐためであった。終戦後、イギリスは補助金を条件にハノーヴァーの安全保障をロシアに要求し、ロシアはこれを受け入れた。しかし、以前からロシアに脅威を抱いていたプロイセンは1756年、ハノーヴァーの安全を保障することを条件にイギリスと同盟を結んだ。これに反発したロシアはシュレジェン奪還に燃えるオーストリアとの連携を深め、同時に打倒プロイセンを目指すオーストリアはフランスと同盟を締結する。1756年4月、ラ・ガリソニエール侯爵率いるフランス艦隊がトゥーロンを出撃し、地中海西部のミノルカ島に上陸した。この報告を受けたイギリスは直ちにフランスに宣戦布告し、先のフレンチ・インディアン戦争は正式に本国同士の戦争に組み込まれ、1763年に講和が結ばれるまで続いたことからこの戦争は七年戦争と呼ばれる。ヨーロッパの地上戦ではプロイセン軍に敗北することが何度かあったが、全体的にフランス軍は優勢で、同盟国のロシア軍がベルリンを占領するなど一時はプロイセン国王フリードリヒ2世に退位を決意させるほどであった。

 しかし、植民地における陸戦や海戦ではイギリスに勝利することができなかった。北米では圧倒的に優勢なイギリス艦隊によって現地のフランス艦隊は早々に撃破され、1759年にフランス初の北米植民地だったケベックが、1762年にはモントリオールがイギリス軍に降伏した。インドでは、当初はイギリス東インド会社の拠点マドラスに迫るほどフランス軍は奮闘したものの、海上輸送によって回復し反攻に出たイギリス軍によって追い詰められ、フランス東インド会社の拠点であるポンディシェリーに籠城して飢餓状態に陥ったフランス軍は1761年、イギリス軍に降伏してしまう。そしてカリブ諸島ではグアドループ島、マルティニーク島が1759年から1762年にかけて制圧された。フランス艦隊は依然としてイギリス艦隊によって監視されていたが、政府は植民地救援のための陽動としてイギリス本土侵攻作戦を企てた。フランス海軍はドーバー海峡制海権掌握のためにブレスト艦隊とトゥーロン艦隊の合流を目指したが、トゥーロン艦隊はポルトガル南部沖合でイギリス艦隊に捕捉され撃破されてしまう(ラゴスの海戦)。また、ブレストを監視していたイギリス艦隊が、イギリス本土侵攻用の輸送船団が集結している港湾に向けて航行していることを知ったブレスト艦隊司令官は、防衛のために直ちに出撃した。ブレスト艦隊は岩礁や暗礁のある湾内にイギリス艦隊を誘い込んで有利に立とうとしたが、逆に自らも暗礁に乗り上げるなどして激しい砲撃戦の末に戦列艦十隻を失ってしまった(キブロン湾の海戦)。ただでさえ戦力がイギリスに対して劣っているのに、貴重な戦列艦を失ってしまったフランス海軍の精神的衝撃は計り知れず、イギリス本土侵攻どころか植民地に兵力の増援を送ることさえ不可能となった。

 長期に渡る戦争でイギリスでは早期終戦を望む声が高まり、またフリードリヒ2世を崇拝するピョートル3世がロシア皇帝に即位して絶体絶命だったプロイセンと講和を結んだことで七年戦争終結に向かった。1763年にパリで講和が結ばれ七年戦争は正式に終結するが、フランスが失ったものはあまりにも大きかった。カナダ、ルイジアナと北米植民地のすべてを失うことになり、インドでもイギリスに支配を譲ることになった。フランスにとって最も重要だった植民地のサン・ドマング島はイギリスに譲渡されなかったため、貿易面にはあまり影響がなかったが、フランスの国際的威信は大きく低下した。この後、ルイ15世統治下のフランスは彼が1774年にこの世を去るまで戦争を行わず、平和な時代が続いた。フランス海軍にとって、オーストリア継承戦争七年戦争は物理的にも精神的にも苦しいものとなったが、悪いことばかりではなかった。先代の王たちが築いた偉大な植民地を両戦争で守りきれなかったのは海軍力の不足にあることが認識され、海軍の再建が声高に要求されたのである。1761年から1766年に陸軍卿と海軍卿を務めたショワズール侯爵は、戦列艦80隻という大艦隊の整備を目指した。この海軍再建の動きは、次の国王の統治下でも引き継がれることになる。

 

次回は「アメリカ独立戦争とフランス革命」です。

 

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