フランス海軍通史 第五回:アメリカ独立戦争とフランス革命

前回(第四回:王立海軍の危機)の続きです。

 

  

5-1. 王立海軍の再建

 ルイ15世の後にフランス王となったルイ16世(在位1774年~1792年)は、ルイ15世の孫であるが長男ではなかったため、自身が王位を継承するとは思っていなかったし、周囲も同様だった。これといった帝王学は教わっておらず、兄たちが王位を継承する前に不幸にも亡くなってしまったため、慣習に則って即位したに過ぎない。かといって頭が悪いわけではなく、地理、物理、海事に深く興味を示し、英語、イタリア語、法学、歴史も一通り把握していたと言われる。物静かで内向的、真面目な性格で、当時広まっていた啓蒙思想にも理解を示すなど、祖父王ルイ15世とは正反対の性格で、趣味は錠前作りであった。

 海軍の再建はすでにショワズール侯爵のもとで行われていたが、パリの警視総監を務めたこともあるサルティーヌがその後を引き継いだ。1750年頃に50隻とイギリスの半分ほどだったフランスの戦列艦は、1775年には75隻にまで増加した。七年戦争で勝利したイギリスが、戦争中の増税を維持して国民の不興を買うことを恐れ、海軍の予算を削減して当時の海軍軍人たちの顰蹙を買ったのとは対照的である。フランス海軍は再び騎士としての装備を与えられることになった。ただし、この海軍力の増強は、ルイ14世ルイ15世が起こした戦争後でもいまだ根本的な解決ができていない財政を圧迫していった。

 

5-2. アメリカ独立戦争の勃発

 七年戦争で新たに植民地を手にしたイギリスは、その防衛費を調達するためにアメリカ植民地に次々と新しい税金をかけた。これに植民地人は当然反抗したが、イギリスは高圧的な態度を変えなかった。1775年、イギリス軍と植民地軍の間で武力衝突が起こり、翌1776年には13州の植民地の代表が独立宣言を発表した。アメリカ独立戦争の勃発である。イギリスはいまや世界屈指の大国であり、植民地が単独でまともにやり合って勝利できる相手ではない。アメリカ特使のベンジャミン・フランクリンは、フランスと何とかして同盟を結んで支援を引き出し、真の独立を達成しなければならないとの思いを抱いて大西洋を渡った。彼の計算された振る舞いはヴェルサイユ宮殿とパリのサロンで大きな効果を発揮する。大国間の均衡と平和維持を重視した外交政策をとっていたルイ16世配下のヴェルジャンヌは、フランスが参戦すれば七年戦争で失った植民地を取り返すことが出来るかもしれないとフランクリンの要請に理解を示していたが、その対応は慎重なものだった。ルイ16世アメリカ独立戦争への参加意思が決定的でなかったこともあり、当初はアメリカへの資金援助と武器弾薬の密輸に留まった。

 だが国内のアメリカ支持の声は高まっていき、1777年には青年貴族ラ・ファイエットを始めとした血気盛んな若者たちが義勇軍を結成して大西洋を渡っていった。その後、アメリカ軍司令官ジョージ・ワシントンサラトガの戦いでイギリス軍に大勝したことが伝えられると、フランスもついに介入する意思を固めた。1778年2月、アメリカと通商同盟条約を締結したフランスはその後すぐイギリスと戦争することになった。当初はたかが植民地の反乱と高を括っていたイギリスであったが、フランスの参戦によって苦しい立場に置かれた。また、イギリスは以前から、戦争中にフランスと貿易を行う中立船に対して「交戦国の当然の権利」として臨検を実施しており、中立国はこれに不満を抱いていた。ロシアがこれら中立国を誘って武装中立同盟を結び、さらに当初は難色を示していたスペインもフランス側に立って参戦したため、イギリスはヨーロッパで孤立してしまったのである。

 

5-3. アメリカ最古の同盟国の海軍

 「砂糖諸島(カリブ諸島)を失えば戦争継続が困難になる」とイギリス国王ジョージ3世が述べたように、この地域はイギリスにとって重要であったが、フランスが参戦した時点で折からの予算不足のために同地のイギリス艦隊は貧弱で、フランスの先制を許すことになった。その後もカリブ諸島の奪還を目指すイギリス艦隊と、同地を制圧しようとするフランス艦隊は一進一退、互角の戦いを繰り広げている。イギリス艦隊はフランス艦(と船員)の破壊を確実なものとするため船体を中心に攻撃し、フランス艦隊はイギリス艦の行動の自由を奪うため帆を張る檣桁を集中的に攻撃するのがこの頃の両者の戦術であった。そのため、海戦を終えたフランス側は死傷者が多く、イギリス側は損傷した檣桁や帆の修理のため再出撃に時間がかかった。

 アメリカ独立戦争に参戦後の1779年夏、イギリス本土侵攻を企図したフランスとスペインは、イギリス艦を撃滅しドーバー海峡制海権を握るため合計70隻にもなる艦隊を集結させた。当時、イギリスのドーバー海峡艦隊は35隻ほどしかいなかったため戦力的には圧倒していたが、悪天候が続いたうえ、上陸予定地点が突如変更されるなどしたために、この上陸作戦は実施されることなく、またフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊と戦闘を行うこともなかった。

 1781年のチェサピーク湾沖の海戦は、アメリカ独立戦争の趨勢を決定づけるものとなった。アメリカ派遣軍司令官クリントンからチャールストンを占領するよう指示を受けていたコーンウォリスはその命令を無視してノースカロライナに進出したが、内陸部に誘い込ませようとするアメリカ軍によって各地を転戦させられ、物資が欠乏したためチェサピーク湾近くのヨークタウンまで撤退し防戦の構えをとった。ド・グラース提督率いるフランス艦隊がチェサピーク湾に入り、ロシャンボー将軍の指揮する地上部隊を揚陸させたことで、コーンウォリスと対峙するラ・ファイエットの軍は8000人にまで増加した。コーンウォリスの部隊は7000人ほどしかおらず、海路だけが唯一の補給路であったため、イギリス艦隊はチェサピーク湾に停泊するフランス艦隊を撃滅するべく出撃したが、決定的な勝利を得られなかった。クリントンは艦隊の再派遣を望んだが修理は遅々として進まず、フランス艦隊のチェサピーク湾封鎖を解除できなかった。ワシントン率いる部隊がラ・ファイエット、ロシャンボーと合流したことで地上軍の戦力差は二倍にまでなり、海路による補給も立たれたコーンウォリスはついに降伏した。

 ヨークタウンの戦いで敗北し、戦意を喪失したイギリスは和平を求めた。1783年にヴェルサイユで締結された条約でアメリカは見事独立を果たし、イギリスはミシシッピ川までの内陸地域を放棄した。この条約で、アメリカの独立に貢献したフランスはニューファンドランド島沖合のミクロン島など、いくつかの領土を獲得するに留まり、七年戦争で失った植民地を取り戻すまでには至らなかった。ただ、アメリカ独立戦争への参戦とアメリカの独立によって、イギリスの覇権に楔を打ち込み、七年戦争で失われたフランスの政治的、軍事的威信を回復することに成功した。フランス海軍は、アメリカの最も古い同盟国の海軍としてその力を存分に見せつけることができたのである。

 

5-4. フランス革命

 しかし、先代の王たちによって破壊されていたフランスの財政は、このアメリカ独立戦争への参戦でさらに悪化した。当時のフランスは、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区別されていたが、人口の九割以上が第三身分であった。第一身分と第二身分は広大な土地と官職を持ち、また免税などの特権を得ていた。同じ第三身分でも、商工業を営み、富を蓄えている都市民層と、領主の下で苦しい生活を強いられている農民の貧富の差は大きかった。1786年にイギリスとの間で結ばれていた通商条約によってイギリスの商品がフランス国内に流通し、多くの商工業が被害を受けた。さらに1788年の天候不順によって農作物が壊滅的な被害を受けたことで小麦の価格が五割以上値上がりするなど社会全体が不安に包まれていた。ルイ16世は財政改革のため特権身分(第一身分と第二身分)への課税を試みたが彼らが激しく抵抗したため、1615年以来開かれていなかった三部会が開催されることになった。

 1789年5月、ヴェルサイユで三部会が開かれたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分は激しく対立した。翌月、第三身分の議員たちは自分たちこそ国民を代表する国民議会であり、憲法制定まで解散しないことを宣言する。特権身分の中から第三身分に同調する者が出てくると国王も譲歩し、国民議会の動きを認めて彼らは憲法の制定に取り組んだ。しかし、ほどなくして国王と保守的な貴族は議会を制圧しようと動き始め、こうした動きに反抗する形でパリ市民は武器を手に入れるためにバスティーユ監獄を襲撃する。この事件が伝えられると全国規模で農民が蜂起し、貴族たちが襲撃を受けた。国民議会は8月、全ての人間の自由・平等、私有財産の不可侵、主権在民言論の自由などを含めた人権宣言を採択する。10月、改革に否定的な国王一家は民衆の手によってヴェルサイユからパリに移された。1791年6月、王妃マリー・アントワネットの母国であるオーストリアへ国王一家は逃れようとしたが、フランス東部ヴァレンヌで捕らえられ、パリに連れ戻された。敬愛する王の逃亡は、国民には怒りよりも失望の方が大きかった。8月、オーストリアプロイセンはヨーロッパ諸国にルイ16世の救援を呼びかける共同宣言を出し、革命勢力は両国の軍事介入を警戒した。10月、選挙権を有産市民に限定し、一院制立憲君主制を定める憲法ルイ16世によって批准された。憲法発布後、立法会議が直ちに開かれたが、革命のこれ以上の進行を望まない立憲君主派と、共和政を主張するジロンド派が対立した。国内外の反革命の動きが活発化すると、ジロンド派の勢力は徐々に増大し、1792年4月には実権を握ったジロンド派によってフランスはオーストリアへ宣戦布告する。ルイ16世は、オーストリアプロイセンと戦争すればフランスは敗北し、革命勢力は鎮圧されるだろうと考えていたのでこの戦争には反対していなかった。余談だが、商人の利害を代表して共和政の樹立を訴えるジロンド派議員はル・アーブル、サン・マロ、ナント、ボルドーマルセイユなどの海岸部や、ガロンヌ川やロレーヌ川など水運が盛んな河川周辺を出身地とする者が多かった。海洋の民は内陸のパリにあくまで反抗的であったと言える。

 

5-5. 王を失った海軍

 ルイ16世の思惑通りフランス軍は緒戦で敗北を喫し、オーストリアプロイセン連合軍はフランス国内に侵攻した。7月、連合軍指揮官のブラウンシュヴァイク公は次のような宣言を出した。「戦争の目的はフランスの幸福であり、囚われの身となっている国王一家を救い出すことである。国王の安全が危険にさらされた場合、連合軍はパリを徹底的に破壊する」。このブラウンシュヴァイク公の宣言にパリ市民は怒り狂い、フランス軍が敗北を重ねているのは国王が敵側と内通しているからだと信じた。8月10日、疑惑と正義感に駆られたパリ市民は国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲い、翌日王権は停止させられ、立憲君主制は終わりを告げた。9月20日、新しく編成されたフランス軍がパリ東方のヴァルミーでオーストリアプロイセン軍に勝利したのは革命勢力を勇気づけた。翌21日、男子普通選挙による国民公会が成立し、22日には王政の廃止と共和政の樹立が宣言され、フランス第一共和政が発足した。

 穏健派であったジロンド派にかわって急進派のジャコバン派が政府内で実権を握っていた。ルイ16世は、反革命の策謀と亡命貴族やオーストリアプロイセン国王との共謀を問われ裁判にかけられた。国民公会で数回行われた投票によって、ルイ16世は賛成387票反対334票で死刑を宣告された。圧倒的多数でないところに議員たちの逡巡が感じられる。カペー朝ヴァロワ朝ブルボン朝と数百年のフランス王国の歴史を体現する人間に死刑を宣告することに苦しむ人間は少なくなかったのだろう。死刑を宣告されたルイ16世は激しく抵抗することもなく、平静にそれを受け止めた。1793年1月21日、ルイ16世を乗せた馬車は、予定時間に少し遅れて処刑が行われる革命広場(現在のコンコルド広場)に到着した。そこには革命の中で新たに人道的な処刑方法として製作されたギロチンが準備されていた。執行準備が整った後、ルイ16世はよく通る大きな声で群衆に語りかけた。「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように。私は、罪なくして死ぬ」その後、ルイ16世を深く尊敬していたパリの死刑執行人、シャルル・アンリ・サンソンによってギロチンに備え付けられた刃が滑り落ち、ルイ16世の太い首はその体を離れ、綺麗に籠へ落ちた。

 フランス王のため、フランス王国に尽くすためにフランス海軍は創設された。創設後約70年間、大陸国家フランスの海軍は、多大なる努力によって真の海洋国家となったイギリスに対する挑戦者として、繁栄と衰退を短期間で繰り返し体験し、その名声はヨーロッパ中が知ることになった。だがこの日、フランス海軍は自らの生みの親であり、善良かつ勇敢、そして偉大であった主を永遠に失ってしまったのである。

 

次回は「揺れ動くフランス」です。

 

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