フランス海軍通史 第六回:揺れ動くフランス

前回(第五回:アメリカ独立戦争とフランス革命)の続きです。

 

 

6-1. 革命の混乱

 フランス王を処刑してしまったフランスの革命は、もはや歯止めが効かなくなった。ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は、公安委員会を中心に徴兵制の導入や革命暦の制定など急進的な政策を進めると共に、反対派を大量にギロチンに送って処刑していった。しかし、対外戦争が安定してくるとロベスピエールの恐怖政治に反抗する動きが高まり、1794年7月にテルミドールのクーデタで彼は逮捕され後に処刑される。その後も社会不安は続いたが、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破るなど優秀な指揮官として頭角を現していたナポレオン・ボナパルトが、クーデタによって自らが統領を務める新政府を樹立したことによって1789年以来十年続いたフランス革命は終了した。

 この戦争中、フランス海軍はまたもイギリス海軍と戦わなければならなくなったが、艦隊内の反革命論者が数多く処刑されるなどしたために優秀な指揮官や船員を数多く失っていた。地中海側では、反革命軍によって占拠されたトゥーロンには全フランス艦隊の半分を占める艦隊が停泊していたが、反革命軍はこの艦隊をイギリスに引き渡すことを提案した。イギリスはさっそくトゥーロンに兵士を揚陸して同地を解放したが、のちに革命軍による攻撃が苛烈なものとなったため、停泊していたフランス戦列艦20隻近くを焼却あるいは破壊して撤退した。フランス海軍は王国時代の通商破壊戦に回帰するしかなかった。

 

6-2. 第一帝政とフランス海軍

 ナポレオンは1801年にイギリスと講和し、フランス銀行の設立、教育制度の整備など国内の安定に務めたが、1804年に国民投票による圧倒的な支持を受けてフランス皇帝に即位し、ナポレオン1世を名乗った。一国がヨーロッパ全域を支配することを恐れ、その可能性が見えるたびに大陸に介入してきたイギリスにとって、ナポレオン1世フランス帝国はヨーロッパを飲み込まんとする津波のような存在であった。イギリスはロシア、オーストリアと再度対仏大同盟を結成する。イギリス本土侵攻作戦を企てたナポレオンは、フランス海軍と兄のジョゼフが統治するスペインの海軍によってドーバー海峡制海権を手に入れようとした。1805年10月、ネルソン率いるイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊はトラファルガー岬沖で交戦した。イギリス艦隊は1隻も喪失しなかった(ネルソンは戦死)が、フランス・スペイン連合艦隊は半数以上を喪失してしまい完全な敗北を喫した。このトラファルガー岬沖の海戦はフランス海軍のトラウマとなり、他国と共同すればイギリス海軍にもあるいはという期待は完全に打ち砕かれた。

 海戦ではイギリスに勝利できなかったナポレオンだが、同年12月にはアウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア軍を撃破し、翌年南西ドイツ諸国をライン同盟として自らの保護下においた。また、1807年にはプロイセン・ロシア連合軍を撃破している。これによってヨーロッパのほとんどがナポレオンの支配下に置かれた。貿易に依存するイギリスに対抗するため、ナポレオンはイギリスとの貿易を禁じる大陸封鎖令をヨーロッパ諸国に出したが、広大な植民地を持つイギリスには大した痛手ではなかった。むしろ、イギリスとの貿易を禁じられたヨーロッパ諸国は大きな被害を受け、またそれを埋め合わせできるほどの工業力をフランスは持っていなかった。大革命によって人も物も傷つけられたフランスが、革命直前の1789年時の工業力を回復したのは20年経った1809年以降であった。

 ナポレオンは封建的圧政からの解放を掲げて各国を征服したが、彼に占領された土地ではフランスによる支配に反抗する民族意識が高まった。まずスペイン、次いでプロイセンでも反乱が起こり、スペインでのゲリラ作戦にナポレオンは苦しめられることになった。1812年、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したことを受けて、ナポレオンは大軍を率いてロシアに遠征したが大失敗に終わった。これをきっかけにヨーロッパ諸国は反攻に転じ、1813年のライプツィヒの戦いでナポレオンは敗北し、翌年にはパリが占領された。退位を余儀なくされたナポレオンはエルバ島に流され、ルイ16世の弟であるルイ18世が王位についてブルボン朝が復活した。しかし、彼は三色旗を廃してブルボン王朝の白旗を復活させようとするなど反革命とも思える行動を取ったため国内で不評だった。これに加え、ウィーンにおけるナポレオン戦争の講和交渉が進んでいないことを見て復権のチャンスと見たナポレオンはエルバ島を脱出し、民衆の熱烈な歓迎の中でフランス本土に帰還した。ルイ18世はまたもや亡命を余儀なくされてしまう。パリに戻ったナポレオンは皇帝に復位するが、1815年6月のワーテルローの戦いで大敗してしまい、南大西洋セントヘレナ島に流されてしまった。ナポレオンの野心はこれで完全に潰えることになる。この期間、カリブ諸島ではナポレオンに同調する軍人の反乱があったが、弱体化したフランス海軍ではもはや対処することができず、イギリス海軍の援助によって何とか鎮圧できた。

 

6-3. 復古王政とフランス海軍

 フランス革命とナポレオンによってヨーロッパに広まった自由主義国民主義を抑え込み、革命以前の政治状況を維持するいわゆるウィーン体制のもと、ルイ18世の統治するフランスは再スタートした。革命と戦争によって疲弊したのは国土だけでなく、政府内の人物も同様であり、ルイ18世は人事刷新に取り組んだ。フランスに駐留していた外国軍の早期撤退を実現し、フランスを列強国として承認させることに尽力したリシュリュー侯爵の起用などが良い例である。ルイ18世ウィーン体制の柱と言えるイギリスとの関係を特に重視したが、海軍力の再建を無視したわけではなかった。1818年、ルイ18世によって海軍大臣に指名されたボルドーの武器商人ポルタルは、戦列艦50隻を中心とする建艦計画を提案した。議会は彼が望んだ予算のうち八割ほどしか承認しなかったが、それでもかなりの戦力増強が可能となった。また、1822年には陸軍砲兵将校ペクサンの技術改良によって、従来は使われていなかった炸裂弾(砲弾の中に適量の火薬を詰め込んだもの)が艦砲にも使われるようになった。ポルタルは最悪の事態(イギリスとの戦争)を想定してフランス海軍の再建にあたったが、イギリス海軍との正面決戦を考えていたわけではなかった。トラファルガーを引き合いに出さなくとも、イギリスに匹敵する大艦隊を整備して挑戦するのは無謀であり、またウィーン体制下でイギリスを過度に警戒させるようなことは避けなければならなかった。ポルタルは王国時代からの伝統である通商破壊戦を実施することが最も有効な戦略だと考えていたのである。先のペクサンの技術革新も、劣勢なフランス海軍が優勢なイギリス海軍に対抗するための策の一つであった。1824年、ルイ18世が死去したことで弟のアルトワ伯シャルルがシャルル10世として即位する。ルイ18世と違い、長身の痩せ型で見る人に快い印象を与えるシャルル10世は国民の心を魅了したが、彼は革命前の体制を望むような振る舞いをとったため、徐々に国民の不満は高まっていった。

 1827年、フランスは数年前から続いていたギリシャオスマン帝国からの独立戦争にイギリス、ロシアと共に介入した。最後の帆船同士の戦いとされるナヴァリノ湾の海戦で、オスマン艦隊は文字通り英仏露艦隊によって血祭りに上げられた。その後もフランス海軍はイギリス海軍と共同作戦を実施し、地中海での海賊掃討に従事している。イギリスはフランスの行動を歓迎すると同時に、フランスが地中海での影響力を増大させていることに警戒を強めていた。

 1829年、新たに首相となったポリニャックは、国内の不満を解消するべくフランスとアルジェリアの外交関係を利用できないかと考えた。要はガス抜きである。ポリニャックはアルジェリア太守がフランス領事を侮辱したことを理由としてアルジェリア侵攻のための部隊を準備した。フランスが対岸のアフリカに勢力を広めることに警戒を強めるイギリスに対しては、この方面の徹底的な海賊掃討を表向きの理由としている。1830年5月、フランス海軍の護衛を受けた3万5000人の陸軍部隊はアルジェリアに上陸し、2ヶ月後にはアルジェを堂々と占領した。しかし、アルジェリア侵攻を進めたポリニャックも、国王のシャルル10世もこの戦果報告に喜ぶ余裕はなかった。出版の自由にも手を加えようとしていたシャルル10世に、パリの民衆がついに蜂起したのである。シャルル10世は王位を孫のボルドー公に譲り、王朝の回復を図ったがそれは叶わず、従弟のオルレアン公が「フランス人民の王」ルイ・フィリップとして新たに即位した。

 

6-4. 七月王政とフランス海軍

 ルイ・フィリップは、シャルル10世の遺産と言うべきアルジェリアを何とか手に入れられないかと考えていた。イギリスは当初、フランスのアルジェリア領有を認めない強硬な姿勢をとったが、フランスがアルジェリア総督府を設立し、どうやってもアルジェリアから離れようとしない態度を見て姿勢を改めた。1837年、イギリスは隣接するチュニジアとモロッコに進出しないことを条件に、フランスのアルジェリア領有を黙認したのである。アルジェリアがフランスのものになったことで地中海における新しい市場を探していたマルセイユ商人たちは歓喜し、フランス海軍はフランスとアルジェリアを繋ぐ航路を防衛することが新たな任務となった。

 この後、イギリスとフランスはモロッコやエジプト、さらには東南アジア島嶼の支配を巡って競争を繰り広げるが、フランスの海軍力がイギリスに劣っている(1840年時点で戦力差はおよそ3倍)ことをよく知っていたルイ・フィリップら政府関係者は最終的にイギリスに妥協することを常に選択せざるを得なかった。見方を変えれば、指導者が彼我の海軍力をよく理解していたから両国の戦争は常に回避されたとも言える。イギリスとしても、フランスと戦争したところで利益はない。

 ルイ18世シャルル10世復古王政も、ルイ・フィリップ七月王政も、選挙権は一定の額を納めた者にしか与えられなかった。多くの人々が選挙権の範囲拡大や納税額の引き下げを要求したが、国王ルイ・フィリップもギゾー首相も取り合わなかった。ギゾーの「金持ちになりたまえ」という発言は有名である。七月王政下では政治集会が禁止されていたが、野党に加え、政治に関心を持つ大衆は宴会という形で頻繁に政治活動を開いていた。しかし、1848年2月にパリで開かれる予定だった宴会が禁止されると民衆による暴動が発生する。ルイ・フィリップは慌ててギゾーを解任したが遅かった。鎮圧部隊が派遣されたものの、彼らも次第に民衆側を支持するようになったことでルイ・フィリップは意気消沈し、孫のパリ伯に王位を譲って宮殿を逃れた。共和派の代議士たちによって臨時政府が樹立され、七月王政は崩壊した。

 

6-5. ナポレオン3世と帝国の復活

 臨時政府樹立後の混乱を経て第二共和政初代大統領に選ばれたのは、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンであった。彼は四年後の1852年、クーデタを起こして国民の圧倒的な支持のもとフランス皇帝ナポレオン3世として即位する。ヨーロッパ諸国は「フランス帝国」の復活に大きく警戒した。ナポレオン3世は過去に「貧困の根絶」という著書を記していたように、労働者の生活状況を改善することを願っていた。また、彼は私企業の育成を図ることで産業を無制限に発展させ、民衆の生活水準を向上させることによって、国家のさらなる発展を唱えたサン・シモン伯爵の思想に若い時から関心を寄せており、国家には経済と産業を推進させる義務があると考えていた。第二帝政は皇帝民主主義とも言われ、一見矛盾しているように感じられるが、「頭」のいないフランスがどのような行動に走るかは今までの歴史を振り返るまでもない。「胴体」だけでは、妥協と合意が苦手なフランス国民が混乱に陥るのは目に見えている。ナポレオン3世は、主権を持つ国民によって選ばれた皇帝がフランスの「頭」となり、「胴体」と言うべき国民を率いてフランスを繁栄させることを望んでいた。彼の頭の中にあったのは、経済的繁栄を遂げるイギリスに負けない、偉大なるフランスの実現であった。

 

6-6. 第二帝政とフランス海軍

 ナポレオン3世は鉄道整備、銀行の設立、大規模な公共事業、パリの改造など積極的に国内の改革に取り組んだが、海軍にも大きな関心を持った。これは軍事面ではなく産業の活性化という面だったが、ナポレオン3世主導下で建てられた建艦計画のもと、名造船官デュピュイ・ド・ロームによってフランス海軍の艦艇は増強されることになった。世界初の蒸気装甲艦として知られる『グロワール Gloire』が建造されたのもこの頃である。また、ナポレオン3世は海運会社を刷新して、最新の蒸気船を運用させた。1853年にロシアとオスマン帝国の間で起きたクリミア戦争では、フランスはイギリスと共にロシアの南下を抑えるべくオスマン帝国を支援した。イギリス・フランス連合軍とロシア軍は激しい攻防戦を繰り広げ、1856年にはロシアは講和を締結せざる得なくなった。この講和会議でフランスは、通商破壊を野蛮で卑劣なものとして私掠行為を禁止するよう提案し、これはパリ宣言という形で実現した。「交戦国の権利」を訴えるイギリスと、中立貿易を営む中小国の仲裁を果たしたフランスは文明国であることを誇示したが、私掠行為が野蛮で卑劣であることを先に証明したのは一体どこの国なのだろうか。長い歴史を持つ文明国フランスの見解が聞きたいものである。

 ナポレオン3世は産業活性化の面から海軍や海運会社の発展に努めていたが、イギリスとは常に友好国であることを求めており、先のクリミア戦争参戦もそのためであった。クリミア戦争終結後、アムラン海相によって提案された大規模な建艦計画に対しては、その内容がイギリスを刺激するものでないかどうか、ひどく心配している。フランスはイギリスよりも早く蒸気船を導入し、建艦計画も比較的一貫したものを立てていたが、工業力で優るイギリスは追いつくことが比較的容易であったため、フランスが劣勢であることに変わりはなかった。ただそれでも、イギリス海軍に次ぐ世界第二位の地位をフランス海軍は維持しており、衰退期が長かった19世紀中、第二帝政はフランス海軍にとって最盛期であった。

 第二帝政下のフランス海軍の発展は海外植民地獲得によるものが大きかった。ルイ18世の時代から、イギリスに対する劣等感で鬱憤が溜まっていたフランス海軍は、(大変迷惑なことだが)アジアやアフリカに植民地を獲得することに自らの存在意義を見出そうとしていた。ルイ・フィリップがイギリスに対して謝罪や妥協を重ねたのも、海外に寄港したフランス艦隊の提督が問題ある言動や行動を行い、それにイギリスや現地国が憤慨したからである。ナポレオン3世は、イギリスを刺激する過度な対外拡張は望んでいなかったが、植民地獲得による貿易活動と産業の活性化には期待していたし、革命後の混乱で失っていた国家威信を植民地の獲得によって回復するという思想には理解を示していた。また、マルセイユに加えて、ボルドーやナントの商人は海外市場のさらなる開拓を望んでいた。アムランの前に海相を務めていたデュコはボルドーの出身であり、海外植民地の獲得を強く訴えている。存在意義を求めるフランス海軍と利益を追求する商人たちの強い後押しによって、南ベトナムのコーチシナからフランスのアジア進出が始まった。当時メキシコ出征に注力しており、当初アジアに関心がなかったナポレオン3世が、ベトナム阮朝からの条約改定だけでなく、領土返還要求にも応じようとしたときにはさすがのフランス海軍も猛烈に反対している。アジアの他に、アフリカではジブチセネガル、南太平洋ではニューカレドニアなどに進出を図った。第二帝政下でフランスの植民地面積は三倍にまで増加した。

 

6-7. 第二帝政の崩壊

 ようやく訪れた安定した社会の中、繁栄を謳歌していたフランスであったが1870年7月の独仏戦争(普仏戦争)によって脆くも崩壊することになった。プロイセン王国を中心としたドイツ諸国の侵攻によってフランス陸軍は総崩れとなり、ナポレオン3世自身がセダンで捕虜となった。フランス海軍はバルト海に進出してプロイセンに対して海上封鎖を行い、外洋では大量のプロイセン商船を拿捕するなど大きな戦果を上げていたが、陸戦の劣勢を受けて海軍兵士までもが地上戦に加わることとなった。ナポレオン3世が捕虜となったことで第二帝政は崩れ去り、新たに臨時政府が樹立された。臨時政府は当初ドイツ側からの要求が過酷であったために戦争を継続することを決意したものの、ドイツ軍によってパリが包囲される状況に陥ったことで1871年5月に講和を受け入れた。この講和条約でフランスは石炭・鉄鋼の重要地帯であるアルザスとロレーヌの大部分をドイツに譲渡し、多額の賠償金を払わされることになった。

 陸戦を目の当たりにしていた国民からすると、海軍は一部の兵士をパリやその他都市の防衛に参加させていたようにしか見えない。対ドイツ防衛を考えたとき、地上戦で多少の貢献しかできない海軍にどれほどの存在意義があるのかとフランス海軍は国民から問われることになった。フランスが広大な海洋に目をやろうとしても、国家のアイデンティティであるその巨大な大陸性を無視することはできなかったのである。

 

次回は「第三共和制ー共和国的な海軍ー」です。

 

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