フランス海軍通史 第七回:第三共和制―共和国的な海軍―

前回(第六回:揺れ動くフランス)の続きです。

 

 

7-1. 国家威信回復のための植民地

 独仏戦争で大きな役割を果たしたドイツのビスマルク宰相は、ヨーロッパ諸国に働きかけてフランスの孤立を図った。第二帝政の崩壊後、新たに発足した第三共和制は、敗戦後の混乱も束の間、国内に蔓延する対独復讐主義と、国際的威信の低下の両方に対処しなければならなくなる。対独復讐のために必要なのはドイツ陸軍を打ち破れる強力な陸軍であり、フランス海軍は必然的に縮小を余儀なくされ、1872年の海軍予算は従来の七割近くまで減少した。

 しかし、1870年代後半に差し掛かるとこの状況は転機を迎える。一部の政治指導者から、独仏戦争の敗北で失った国際的威信を海外植民地の獲得で取り戻そう、という主張がなされるようになり、徐々に支持を集めていったのである。また当時、生産過剰を発端とした経済不況にヨーロッパは悩まされており、保護主義的な貿易活動に各国は向かっていた。その中で、海外植民地は本国の産業を支える市場として、そして原料を無尽蔵に生み出す希望に満ちた場所と考えられたのである。そして、未開の土地に住む「低級な民族」に「文明化」を促すことで、自らの優越性を示そうとするイデオロギー的な側面があった。少し長くなるが、フランスの植民地獲得を推進した二人の人物の言葉を以下紹介しよう。

 一人目は、ジュール・フェリーだ。フェリーは第三共和政下で初等教育の義務化、無償化を定める法律を制定した教育者であると同時に、フランスの植民地獲得を積極的に推し進めた穏健共和派の議員である。

 

「人道的、かつ文明化の観点から(私の植民地政策に対して反対する急進派の議員は)、『大砲をもって押し付ける文明とは一体何か。それは形を変えた野蛮ではないのか。劣った人種の人々と言われるその人たちもあなた方と同じ権利を持つ人々ではないのか。彼らはその地にあって自ら律して生きているのではないか。彼らがあなた方を喜んで迎え入れたとでも言うのか。あなた方が勝手にその地に行ったのだ。そして、そこで暴力を振るっている。文明化などしていないのではないか』と言われるのであろうが、わたしに言わせれば、それは政治でも歴史でもなく、ただの観念論に過ぎない。声を大にして言わなければならない。はっきり申し上げましょう。優秀なる人種は劣った人種の人々に対して権利を持っているのですよ」(『植民地の偉大さと隷従』(邦訳版)の訳者序文より要約引用)

 

 二人目は、フランシス・ガルニエである。ガルニエは、東南アジアへの植民と調査を積極的に行ったフランス海軍軍人だ。

 

「フランスのような国が未知で未開の土地に足を踏み入れる場合、通商の拡大と利益追求だけをその推進力とすることに満足すべきだろうか?文明化したヨーロッパを支配するような意見を持ち、また世界を席巻させるような思想を持つ偉大な国家は、神からより偉大な仕事を仰せつかっているのだ。すなわち、いまだ無知と抑圧の奴隷になっている人種や民族を解放し、彼らに光と自由をもたらすことである」(『ドイツ・フランス共通歴史教科書』より引用)

 

 両者の言葉は、文明国フランスによる、アジアやアフリカといった未知で未開の土地の植民地化は必然かつ正当な行為であるという思想を端的に表現している。フェリーのような議員にとっては、国家威信の発揚、経済的利益の追求、文明化という使命、そしてガルニエのような海軍軍人にとっては海軍のための植民地帝国建設と、アジアやアフリカにはどす黒い野心が向けられていた。ジャーナリスト、政治家、資本家、そして海外での布教に燃える宣教師たちは、大衆に植民地獲得の必要性を広めようと連携した。政界では新たに結成された植民地党が、すべての陣営に対して支援者を募り、積極的なロビー活動を行っている。

 

7-2. 海外植民地の獲得とフランス海軍

 フェリーやガルニエなどの植民地獲得を支持する派閥に対して、政界では対独復讐のためには海外ではなく、国内に人材と資金を投入したほうがいいのではないか、海外市場の獲得はともかく、人道的な面から植民地政策の再考が必要ではないか、という反対意見があった。また、世論の大部分は、独仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方奪還のため、陸軍の増強と国内産業の振興を求めており、フェリーらが進める植民地政策には批判的であった。このように、フランス国内で完全な合意がなされている(合意がなされている方が珍しい)とは言えない状況であったが、海外植民地の獲得は実行された。

 最初の目標に選ばれたのは、フランスが過去に獲得したアルジェリアの東に位置するチュニジアであった。対独復讐思想からフランスの目を逸らさせるのに、同国の対外進出は好都合と考えたドイツはこれを黙認し、50年前のアルジェリア侵攻では圧力をかけてきたイギリスも、新興国イタリアがシチリア島対岸のチュニジア保有することには否定的だったので、フランスを支持した。チュニジアに対して国家統一時からずっと関心を寄せていたイタリアは、フランスの行動に反対したが他国の支持を集めることができず、チュニジア獲得の夢を捨てざるを得なかった(これは後の仏伊関係の悪化に繋がり、イタリアは1882年にドイツ、オーストリアハンガリー三国同盟を締結している)。列強諸国が支持する中、フランスは1881年チュニジアへ侵攻。フランス海軍は陸軍兵士が乗る輸送船を護衛し、部隊の揚陸後は沿岸砲撃で陸軍を支援した。二年後、チュニジアオスマン帝国支配下から離れてフランスの保護国となった。以後フランスは、西アフリカから中央アフリカと、アフリカ内陸部の植民地化を積極的に進めている。

 また、フランスはアジアにも進出した。フランスは第二帝政時代にコーチシナを獲得していたが、ジョーレギベリ海相やフランス海軍軍人は、清が宗主権を有していたベトナムへの進出を強く要求した。1884年ベトナムの宗主権を巡って清との間で戦争が勃発する。優勢なフランス艦隊によって清国艦隊は撃破され、翌年の天津条約で清はベトナムの宗主権を放棄し、フランス領インドシナが成立することになった。ただ、フランス海軍が「我々の香港」と呼んで獲得を期待していた澎湖諸島(台湾西方に位置する島嶼)は、アジアにおけるフランスの影響力拡大を懸念するイギリスの圧力によって、領有は断念せざるを得なかった。フェリーらが求めていた最大の海外市場である中国への進出は、すでに東南アジアで強い影響力を持っていたイギリスに配慮しなければならず、また欧米からの技術導入によって発展を続ける日本の存在、そして概してアジアがアフリカに比べて「反抗的」であることも重なって、同地域への進出は思うように進まなかった。物理的、歴史的に距離が近いこともあり、フランスにとって重要な植民地は基本的にアフリカであった。

 アフリカやアジアなどへの展開を積極的に実施したフランス海軍は、植民地獲得とその防衛に存在理由を見出し、その後も共和国の植民地政策を支持するようになる。独仏戦争後、陸軍と激しく競争していたフランス海軍であったが、国家が主導する形で植民地獲得が進められたのは幸運であった。ただ、同時期のフランス海軍が保有する艦艇や建艦計画はあまり健全なものではなかった。1870年から1880年前半にかけて建造されたフランスの巡洋艦は、比較的安価な仕様の木造低速艦がその多くを占めていた。フランス海軍も時流に乗り、鋼鉄製の巡洋艦の建造には取り組んだものの数隻で打ち切って木造低速艦の建造に戻ってしまっている。この時期のフランス海軍の建艦計画は無定見と言っていいもので、平時、戦時における植民地保護という名目で建造は行うものの、実戦で使うには疑問符がつく性能の巡洋艦ばかりだった。理由としては、船体を鋼鉄製にすることによる建造費の高騰、鋼材の供給力不足、また熱帯地域での木造艦の居住性の優位性などが挙げられるが、ナポレオン3世(とデュピュイ・ド・ローム)のような強力な指導力を持つ人間がいなかったことが大きいと考えられる。

 

7-3. 新学派の登場と技術革新

 しかし1880年代後半に入ると、フランス海軍は植民地を主眼に置いた艦隊整備を見直さなければならなくなっていた。地中海ではイタリアがイギリスからの技術導入によって艦艇国産化を着実に進めて海軍力を増強していた。そして、依然として圧倒的な海軍力を保有し、アフリカ植民地を巡って緊張関係が高まりつつあったイギリスに対処することが求められていたのである。さらに、フランス以上に大陸国家であるドイツが、海軍力の増強に取り組んでいることも懸念の対象であった。

 そんな中、フランス海軍内部では、「ジューヌ・エコール」(Jeune Ecole、以下新学派)と呼ばれる一つの新しい戦略を提唱する派閥が台頭していた。この派閥を率いたのが1886年海相となるテオフィル・オーブ提督である。オーブは、「ドーバー海峡に面する港湾には、従来の装甲艦に加えて新兵器の魚雷を搭載する水雷艇を、大西洋側の港湾にはイギリスの生命線である海上輸送路を寸断するための強力な巡洋艦部隊を、そして地中海側の港湾には沿岸防衛と港湾砲撃を目的とした強力な装甲艦を配備する」という戦略を提唱した。

 黎明期には短い距離をノロノロと進むことしかできなかった魚雷は徐々に改良が施され、射程と速力は大きく向上していた。この事実は、「新兵器の魚雷によって、小型艦でも大型の装甲艦を撃沈することが可能となった。また、イギリスが伝統的な海上封鎖を実施しようが、魚雷を備えた軽快な水雷艇と、分厚い装甲と強力な大砲を備える装甲艦ならそれを突破することも不可能ではない」という新学派の主張を支えた。また、現代では空母に並んで重要な艦艇である潜水艦も、敵に発見されずに魚雷攻撃ができるという点から大いに期待され、実用的な潜水艦の開発が積極的に進められた。意外に思われるかも知れないが、黎明期の潜水艦開発に大きく貢献したのはフランスである。潜水艦はドイツの発明品ではない。また、科学技術の発展は魚雷だけではなく、軍艦自体にも進化をもたらしている。

 19世紀後半に入るまでの巡洋艦は速力発揮のため大出力の機関を搭載する必要があり、従って装甲に充てる重量の余裕はなく、ほとんど無装甲に近いものであった。一部の国は限定的な箇所に装甲鈑を取り付けた装甲帯巡洋艦(Belted Cruiser)というものを建造したが満足いくものではなく、非装甲巡洋艦の時代がしばらく続いていた。しかし、機関の高出力化と軽量化が進み、以前より強靭かつ軽量の装甲鈑が開発されると、巡洋艦もようやく装甲を手に入れることが可能となったのである。1884年にイギリスがチリ向けに建造した『エスメラルダEsmeralda』は、機関室上面に全通した防御甲鈑を取り付け、舷側の石炭庫と合わせて機関を防御する形式を世界で初めて採用し、この形態の巡洋艦は「防護巡洋艦(Protected Cruiser)」として世界各国に広まっていった。それまで木造低速の巡洋艦ばかり建造していたフランス海軍もついに1887年、『スファクス Sfax』を筆頭に防護巡洋艦の建造を徐々に開始した。余談だが、『スファクス』の設計を担当したエミール・ベルタン造船官は、強力なドイツ製装甲艦を持つ清国へ対抗するため、日本がフランスに発注した巡洋艦(いわゆる三景艦)の設計も行っている。

 しかし、従来よりも格段に速いスピードで砲撃が可能な速射砲の発達と、高威力の炸薬弾の登場は、誕生して間もない防護巡洋艦の地位を早々に脅かすようになった。商船護衛に就いている敵国の防護巡洋艦と、通商破壊に赴いた自国の防護巡洋艦が戦闘になった場合、速射砲と高炸薬弾によって上部構造物や兵装をたちまち破壊され戦闘不能になり、有効な通商破壊ができないのではないか、という危惧が生まれたのである。そこでフランスは1890年、100mmの装甲鈑を舷側のほぼ全部にわたって取り付けた『デュピイ・ド・ロームDupuy-de-Lome』を進水させた。これは「装甲巡洋艦(Armored Cruiser)」として世界各国に普及していった。フランス海軍はこの装甲巡洋艦を有効な艦種と評価し、積極的に建造を行っている。フランスの装甲巡洋艦は、基本的に通商破壊のために速力と航続力を重視した結果、大型の割には他国の同種艦に比べると兵装はそこまで強力ではないのが特徴である。

 オーブは1886年7月1日から1887年5月30日までの約二年間海相を務めた。守旧派の上層部も新学派のリーダーであるオーブの主張を真っ向から否定する気はなく、魚雷、水雷艇、装甲鈑、機関と日々生まれる新技術を用いてイギリス海軍に対抗しようとする彼の主張に協調する姿勢をとった。王国時代から、フランス海軍はイギリス海軍に対して技術革新で対抗しようとしてきた伝統があり、それは共和国になっても変わることはなかった。伝統と革新は対立するものではないのである。オーブは、イギリス海軍海上封鎖(とドイツ海軍のドーバー海峡通過)に対処するため、シェルブール水雷艇と海防装甲艦を、大西洋に面したブレストにはイギリスの海上交通路寸断のための高速巡洋艦を、そして地中海に面したトゥーロンには最新の装甲艦を配置していった。圧倒的に優勢なイギリスに対しては正面での防御と後方への攻撃に徹し、まだまだ戦力的に優るイタリアに対しては、正面決戦と沿岸砲撃を実施する、といったこの布陣は長らくフランス海軍で採用されることになった。

 なお、オーブの提唱する通商破壊戦を、パリ宣言で私掠行為の禁止を盛り込んだ「文明国フランス」の地位を貶めるものだと批難する人間もいたが、オーブはこれを気に留めていない。(何としても回避するべきだが)イギリスと戦争をするならこれぐらいの覚悟が必要、と彼は考えており、またパリ宣言のような国際法が戦時にどれほどの効力を発揮するのか疑問視していた。第六回で述べたとおり、パリ宣言は戦時における私掠行為を禁止していたが、臨検の対象となる戦時禁制品に関する明確な規定はなく、同宣言内で規定されていた、敵側の貿易を阻害する海上封鎖の内容についても実効性に疑いのあるものだった。事実、パリ宣言採択後も民間商船に武装を施して運用する行為は各国が行っている。また、独仏戦争中、フランスによって自国商船が次々と拿捕されていることに悩んだビスマルクは、パリ宣言を持ち出してフランスに外交的圧力をかけようとした。しかし、当事者のフランスだけでなく、ビスマルクが頼りにしていたイギリスもこの問題について特に動こうとしなかったのである。戦時における交戦国と中立国の義務と権利を厳密に規定し、パリ宣言の不備を見直した、海上における国際的な取り決めは1909年のロンドン宣言を待たなければならなかった。

 

7-4. 「共和国」的な海軍

 1890年、第三共和政下のフランス海軍に一つの道を作ったオーブはこの世を去ってしまう。そして、ここからが悲劇の始まりであった。第三共和政では議会が大きな権限を持っていたが、海軍予算の決定と海軍戦略を巡る議論が政争の道具として用いられるようになっていったのである。オーブの甥であり、同時に有力なジャーナリストであったガブリエル・シャルムは水雷艇に過剰とも言える期待を寄せてその効果を宣伝し、海軍軍人の中にもシャルムに同調する者が出始めた。巡洋艦については、防護巡洋艦装甲巡洋艦、そして海外植民地警備用の小型巡洋艦、と海軍内部でも意見が割れ、整備は一貫したものとならなかった。最終的にフランスは列強諸国で最も早く防護巡洋艦の建造を打ち切ったが、他国が偵察巡洋艦軽巡洋艦といった艦種に防護巡洋艦を発展させていったのに対し、フランスではそのような動きは見られなかった。

 政府、海軍内では水雷艇巡洋艦を過度に重視する派閥が形成され、オーブが提唱した合理的な戦略は完全に破壊されていた。その裏で、ドイツとイタリアは着実に海軍力を増強させており、特にヴィルヘルム2世とティルピッツ海相が指導するドイツ海軍の発展は目覚ましいものがあった。そして依然としてイギリス海軍はフランス海軍を圧倒しており、フランスが大量に建造した水雷艇に対抗するための「(水雷艇)駆逐艦」の整備も進められていた。技術についてはもはや優位性はなく、かつてデュピュイ・ド・ロームが提唱した均質同型艦(同一性能の軍艦を複数同時に建造すること)の整備さえ実施できなかった。

 1898年、アフリカで横断政策と縦断政策をそれぞれ進めていたフランスとイギリスは、スーダンのファショダで衝突した。当時、フランスはイギリスに対して海軍力で二倍の差を付けられており、大量に建造した水雷艇もその補給基地の整備が万全なものではないなど、まともに戦えるような状況ではなかった。歴然とした海軍力の差を知ったフランスのデルカッセ外相は、イギリスに譲歩せざるを得なかった。デルカッセは、かつて海軍委員会の一人として、「植民地はヨーロッパにおけるフランスの地位を向上させる」と議会で熱心に説き、植民地の獲得とイギリスに匹敵する大海軍の創設を主張していた。しかし外相となって、フランス海軍の政治的・軍事的な実情を知ってからはその実現が困難なものであると認識し、消極的に歪んだ新学派理論支持に回っている。

 少し乱暴な表現だが、「植民地獲得ゲーム」のマスターは、依然として圧倒的な海軍力を有するイギリスであり、フランスはプレイヤーの参加資格を与えられただけの存在であった。当時のフランス植民地はイギリスに次ぐ世界第二位の面積を持っていたが、ドイツという強力な大陸国家を東に持つフランスが、海洋国家イギリスと同等の海軍力を保有して、植民地獲得ゲームのマスターになることなど不可能であり、デルカッセの主張はまさに大言壮語であった。「大陸国家であり海洋国家」という矛盾は、フランスが抱える数多くの矛盾と同様、ここぞとばかりにフランスを悩ませたのである。

 デルカッセはこのファショダにおける衝突を梃子として、従来の英仏の対立関係を協調関係へ転換させることを図った。このデルカッセの方針転換は、1904年の英仏協商(イギリスのエジプト支配権とフランスのモロッコ支配権を相互に承認)として実を結んでいる。また、かつてチュニジア問題で関係が悪化していたイタリアとは、同国のリビア進出を認める代わりにフランスのモロッコ政策の承認を確約させた。独仏戦争後、ビスマルクはヨーロッパにおけるフランスの孤立を図ったが、皇帝ヴィルヘルム2世の挑戦的な対外政策を契機に列強諸国の関係は変化し、ドイツへの逆包囲網が構築されつつあった。

 だが、1902年にカミーユ・ペルタンが海相についたことは、混迷するフランス海軍に致命的な一撃を与えた。ペルタンは、旧友のジョルジュ・クレマンソーとともに、フェリーら穏健共和派が進めた強引な植民地政策に反対し続けていた急進派議員の一人である。徹底した議会制民主主義を肯定し、世俗化(国家と宗教の厳密な分離)と社会正義を求めるペルタンにとって、暴力的な植民地政策を支持し、「文明国フランス」の品位を下げる行為に加担したフランス海軍は許しがたい存在であった。フランス海軍が何のために創設されたか思い出していただきたい。それは王の栄光のため、王の植民地のためであり、そして王の植民地には布教に熱心な宣教師が付き物であった。ペルタンは、フランス海軍を王党派やカトリックの巣窟として人事に大きく手を加え、また軍事的な根拠が一切ないにもかかわらず、水雷艇の大量建造を追加した。潜水艦に関しても、すでにローブーフ技師によって近代的な潜水艦が実用の域に達していたにもかかわらず、個人的な理由でその発注を実施しなかった。装甲艦については、イギリスに範をとったデザインの『レピュブリクRepublique』級や『リベルテLiberte』級などの新型艦がベルタンのもとで設計され、建造に着手していたが、竣工には五年ほどかかった。これらの艦名には「共和国」「祖国」「自由」「正義」など、いかにも共和主義者好みな単語が採用され、海軍軍人からは非常に不評だった。ペルタンが海相職を離れた1905年、イギリスは革新的な戦艦『ドレッドノートDreadnought』の建造を開始しており、先に述べた新型艦が竣工するときにはもうドレッドノートは完成してしまっていた。イギリスだけでなく、ドイツ、アメリカ、ロシア、イタリア、そして極東の日本までもが弩級戦艦の建造に取り組んでいたが、フランスはその流れに遅れた。一挙に六隻が建造されたフランス最後の前弩級戦艦である『ダントンDanton』級が1911年に竣工したとき、イギリスは弩級戦艦をすでに十隻、ドイツは七隻保有していた。

 

7-5. 第一次世界大戦とフランス海軍

 1909年に海相に就任したラペレール提督はフランス海軍の近代化に取り組んだ。1910年にはフランス初の弩級戦艦として『クールベCourbet』級四隻の建造が承認され、1912年には超弩級戦艦として『ブルターニュBretagne』級三隻が、1913年には34cm四連装砲を三基搭載する『ノルマンディNormandie』級の建造が開始された。今まで一切手が付けられていなかった偵察巡洋艦も1914年には4,500t、29ktの『ラモット・ピケLamotte Picquet』級の建造が承認された。オーブの死後、イギリス海軍やドイツ海軍に大きく差をつけられてしまったフランス海軍であったが、これだけの増強を行えばヨーロパ有数の海軍力の地位を取り戻せると意気込んでいた。

 だが1914年6月28日、サラエヴォで響いた銃声によって、このフランス海軍の願いは叶わぬものとなった。ドイツの支持を得たオーストリアハンガリーセルビアに宣戦布告すると、ロシアはセルビア支持を表明。8月初め、他の列強諸国も同盟、通商関係を理由に参戦し、第一次世界大戦が始まってしまった。緒戦で何とかドイツ軍の侵攻を食い止めることに成功したイギリス・フランス連合軍は、その後四年にわたって塹壕戦を繰り広げることになる。海軍工廠は前線で不足している銃器や砲弾、野砲の生産を行うことになった。偵察巡洋艦駆逐艦などの建造は中止され、戦艦の『ブルターニュ』級のみが工事を続けられた。この戦争ではドイツ潜水艦による通商破壊が実施され、その対策に連合軍は苦しむことになったが、護衛艦艇を新造することもままならないフランス海軍は、急遽日本から駆逐艦を購入しなければならなかった。海戦はほとんどイギリス海軍とドイツ海軍の手によって行われ、イギリスと共に実施したガリポリ上陸作戦では複数の艦艇を喪失した。フランス海軍は船団護衛などの任務に従事し、フランスが戦争に必要な資源を海外から安全に入手することに寄与したものの、戦後は1871年同様、肩身の狭い思いをすることになった。大戦中に連合軍総司令官となった陸軍のフォッシュ元帥は、第一次世界大戦中におけるフランス海軍の活動について「今大戦での海軍の貢献は、アフリカから三個師団を輸送したことだけである」と述べたと伝えられている。第一次世界大戦終結し、その処理が終了したときにフランス海軍が持っていた最も近代的な艦艇は、ドイツとオーストリアハンガリーから賠償艦として得た数隻の巡洋艦駆逐艦だけであり、隻数が十分なものは日本から購入した駆逐艦のみという、戦勝国とは思えない悲惨な状況であった。

 独仏戦争後のフランス海軍は、「文明化という使命」に取り憑かれた共和国が進める植民地政策の中で自らの存在理由を示そうとしたが、アメリカ、ドイツ、イタリア、日本といった新興国の海軍増強と、国内で政争の道具に使われたことで苦しい立場に置かれることになった。かつて王のために創設された海軍は、長い混乱の末に共和国の海軍として存続していたが、動揺が激しい共和国下では一貫した海軍政策をとることは困難であり、また海軍側にもそうした行動のための政治的指導力はなかったのである。戦後の悲惨な状況を見て、独仏戦争後の50年間をフランス海軍上層部がどう思ったのかは想像に難くないが、彼らは感傷に浸っているばかりではいられなかった。フランスはようやく訪れた平和に安堵する間もなく、大戦による幾つかの帝国の崩壊と、それに伴って変化した国際情勢に対処しなければならなかったのである。

 

 

次回は「第三共和制―夢幻の安全保障―」です。

 

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