フランス海軍通史 第十回:冷戦とフランス海軍―第五共和制の成立と冷戦―

前回(第九回:冷戦とフランス海軍―第四共和制と植民地帝国の終焉―)の続きです。

 

 

10-1. 第五共和制の成立

 現代まで続く第五共和制は、「半大統領制」とも呼ばれる。制度上、間接選挙によって選ばれる任期七年(1962年に直接選挙に変更され、2000年に任期が五年に短縮)の共和国大統領を議会も国民も解任できない。共和国大統領は「憲法の遵守を監視し、その裁定によって公権力の規則正しい活動および国家の持続を確保」し、「国家の独立、領土の無傷、条約の遵守の保障者」とされている(第五条)。この他にも、議会を迂回して特定の法案を国民投票に付託する権限(第十一条)、議会下院を解散する権限(第十二条)、大統領が判断する「緊急事態」において執行権、立法権の大統領への集中、そして憲法規定の一部停止などを行使する権限(第十六条)など、第五共和制の大統領は稀に見る強い権限を有している。

 ドゴールは反議会主義、政党嫌いであり、上記のような強い大統領権限も、立法府を優越する行政府(「頭」の確立)を望んだ彼の意向が強く反映されている。そのため、議会は権限を縮減されていたが、全くの無力というわけではない。議会は直接選挙によって選出される下院(国民議会)と、地方議会議員を主体とした選挙人団に選出される上院(元老院)によって構成されている。大統領は何の制約も受けずに首相を任命することが可能だが、首相は下院の信任を得なければならないと規定されており、議院内閣制の原則は残されているのである。強力な行政府の確立はフランスに悲惨な結果をもたらすとして、フランス国民は議会を中心とする体制が最も民主的であると長く信じ、議会の権限を縮減するという試みには反対してきた。ドゴールは、共和制が最も理想的な政体だと必ずしも考えていたわけではないが、共和制を支持し、共和制に愛着を持つフランス国民の心情を彼はよく理解していた。ドゴールは議会を根城に好き勝手に騒ぐだけの政党の影響力を縮減した上で、独立した強力な権限を有する大統領と、議会下院の双方に信任される首相(=内閣)を置くことによって、行政府と立法府のバランスを取ろうとしたのである。第五共和制が「半大統領制」と呼ばれるのはこうした理由による。

 フランス革命の混乱の中でルイ16世は哀れにも処刑されてしまったが、「共和制君主」とも言うべき第五共和制大統領を見ると、フランス人は今でもかつてのフランス王のような君主的存在を求めているように思える。現職のエマニュエル・マクロン大統領は、立候補する前の2015年、次のように述べている。

「民主主義のプロセスのうちには、一人不在の人物がいます。フランスの政治では、この不在の人物とは王なのです。私は基本的に、フランス国民は王の死を望んでいなかったと思っています」(『シャルル・ドゴール 歴史を見つめた反逆者』より引用)

 フランス革命後に発足した共和制は、国民からすると「議会」という顔が見えない、国のために今何をやっているのかよくわからず、完全に信頼することができないものだった。それに対し、共和制に代わって新たに発足した帝政は、顔は見えるが議会を骨抜きにし、結果的にフランスに新たな混乱と悲劇を招いた。妥協で生まれた第三共和制(と第四共和制)は奇跡と思えるほど長く続くことができたが、結果的には崩壊することになった。フランスにはやはり「頭」が必要なのである。こうして考えてみると、第五共和制大統領は、フランス国民にとって自分たちの先祖が処刑してしまったフランス王に代わる、父親のような存在ではないだろうか。いつでも顔を見ることができ、会話を交え、不満がある時には躊躇なく罵倒し、自分が危機に陥った時には相談して最後の頼りとするような、そんな存在である。主権を持つ国民によって選ばれた大統領が国家元首である強力な民主主義国家フランス、というのは、裏を返せば国民の間で妥協と合意が中々上手くいかず、団結よりも分裂していることのほうが多いという弱点をよく示している。それをよく理解していたドゴールは、自らが設けた第五共和制大統領に、フランスとしての「頭」の役割と、国民の団結を体現させようとしたのであった。

 

10-2. フランス共同体の失敗

 ドゴールは第五共和制憲法のもとで「フランス共同体」という制度を新たに設けていた。フランス共同体は、フランス共和国と固有の自治権を持つ海外領土によって構成されており、外交、防衛、経済、教育、司法をフランス共和国と共有し、共同体大統領をフランス大統領が兼ねることとなっていた。ドゴールは海外領土に対し「加盟するか独立するか」の国民投票を呼びかけたが、この時に独立を選択したのは「隷属下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」と主張したギニアだけであった。ほとんどの海外領土は共同体へ加盟することを選択したが、これは長続きしなかった。アフリカにおける独立への気運は高まり続けており、アルジェリア問題で国際社会から批難されていたフランスとしても、海外領土に対して豊かさか貧困かといった高圧的な態度を取り続けることは難しくなっていったのである。独立後、早々に貧困状態となったギニアに対してアメリカとソ連が影響を及ぼし始めたことはドゴールを強く刺激し、共同体構成国に対して、共同体を離脱して独立したとしても経済援助を続けることを表明する。そして1960年には共同体構成国が共同体を離脱しなくとも独立できることを認め、これによって14の国々が新たに独立した。各独立国には共同体残留を希望する国もあったが、もはやフランス共同体は実体のないものとなり、ドゴール自身も共同体構想が失敗したことを認めた。わずかに残った海外県および海外領土には、イギリスに次ぐ世界第二位の植民地帝国の面影は残されていなかった。

 無論、フランスはそう簡単に諦めるような国家ではない。第五共和制成立後、アルジェリアが独立するのに時間がかかったのは同地で大規模な石油資源の開発が進み、その利権を巡って激しい論争が繰り広げられたのが一因であったように、フランスはエネルギー供給の確立に躍起となっていた。独立かつ安定した資源供給の確立ができない国家は大国ではない、とドゴールは考えており、石油資源が豊富な中東諸国との関係強化に加え、いまだ天然資源が数多く眠る独立したアフリカ諸国と特別な関係を構築することを求めたのである。アフリカとの関係において重大な役割を演じたのは、ドゴールから絶大な信頼を得ていたジャック・フォカールである。フォカールは、アフリカ諸国の大統領のみならず、財界、軍部、諜報機関にまで及ぶ広大な人的ネットワークを構築し、アフリカ諸国が重要な政策を決定する際には各国の大統領にフランスとの協議を事前に行わせるような体制を整えている。また、各分野の専門家が開発援助の名のもとで積極的にアフリカ諸国に派遣され、教育、経済、産業面での支援を行った。さらに、独立した国々とは経済面や文化面だけでなく、相互防衛協定、治安維持協定、軍事技術協定など様々な協定を結んでフランスの影響力を残そうとした。実際にアフリカ諸国でクーデタなどが起こったときには、締結した協定を理由に現地政府存続のための軍事介入を数十回以上フランスは行っており、「アフリカの憲兵隊」とも呼ばれていた。現在はフランスもアフリカ諸国もそうした関係を見直しつつあるが、フランスがアフリカで構築したネットワークは現在も、アメリカを始めとした他の国々に有効活用されている。

 

10-3. フランス海軍の再建

 前述したとおり、戦後インドシナアルジェリアといった植民地の独立戦争に多額の費用をつぎ込んでいたフランスでは、海軍の再建は後回しにならざるを得なかった。国産の新造艦を手にすることができるようになるのは1950年代半ばを過ぎてのことであり、ドゴールが政権の座についてフランス国内が安定したこの時期からようやくフランス海軍の再建は始まったと言える。

 戦後計画した空母『PA28』を放棄せざるを得なかったフランス海軍だが、1953年と1955年にそれぞれ一隻ずつ空母建造が承認された。この2隻が、フランスが当初から空母として計画、建造した初めてのクラスとなる『クレマンソーClemenceau』級である。1番艦の『クレマンソー』は1961年に竣工し、2番艦『フォッシュFoch』は1963年に竣工した。『クレマンソー』級は全長265m、満載排水量32,700tと大戦中に運用されたアメリカの『エセックスEssex』級とほぼ同等のサイズであり、アメリカが同時期に建造していた空母と比べると格段に小さく(1961年竣工の『キティホークKittyhawk』は満載排水量75,200t)、搭載機数も40機ほどである。フランス海軍は『クレマンソー』級を対潜空母として計画しており、搭載機も国産のブレゲー・アリゼ対潜哨戒機とエタンダールⅣ艦上攻撃機が中心であるなど、艦隊防空能力は限定的である。対潜空母ならではの特徴として、空母にしては珍しく艦首部にソナーを搭載していた。アメリカやイギリスが運用していた空母と比べるとサイズが小さく、航空機の運用能力にも限界があった『クレマンソー』級だが、竣工当初からアングルドデッキ、蒸気カタパルト(残念ながらイギリス製)、ミラーランディングシステムなど近代空母に必須な装備を備え、対潜戦闘とは別にヘリコプターを30機から40機ほど搭載して揚陸艦的運用をすることも可能であり、フランス海軍ひいてはフランス海上航空兵力の象徴として長く扱われることになった。

 念願の空母を手にしたフランス海軍であったが、自衛能力に乏しい空母を丸腰で運用するわけにはいかない。『クレマンソー』級を護衛する水上艦として、『シュルクーフSurcouf』級が新たに計画された。船首楼船型、二本煙突と大戦中のフランス駆逐艦の特徴を継承しており、満載排水量3,740t、速力34ktを発揮し、主兵装として127mm砲連装両用砲3基、57mm連装砲3基、550mm3連装魚雷発射管を搭載する対空、対潜能力を重視した駆逐艦である。『シュルクーフ』級は対潜能力を強化した改良型を含めて18隻が建造された。さらに、1960年には『クレマンソー』級の対空、対潜直衛任務用に国産のマズルカ対空ミサイルを搭載する『シュフランSuffren』級駆逐艦が2隻計画され、それぞれ1967年と1970年に竣工している。満載排水量6,090t、速力34kt、前述した国産のマズルカ対空ミサイルとマラフォン対潜ミサイルを搭載しており、巨大なレーダードームを艦橋構造物の上部に置き、艦中央部には煙突とマストを兼ねたマックを備える非常にモダンなデザインとなっている。これら水上艦隊の中核を担う駆逐艦とは別に、船団護衛を目的としたフリゲートも建造された。これが1955年から1960年にかけて竣工した『ル・コルスLe Corse』級と改良型の『ル・ノルマンLe Norman級』である。どちらも相互防衛援助協定に基づいて計画されたもので、満載排水量1,700t、速力28ktを発揮可能で、どちらも主兵装として57mm連装砲3基、550mm3連装魚雷発射管を4基搭載する点は同じだが、兵装配置は異なっている。また、海外領土の警備および戦時の船団護衛用として、満載排水量2,300t、速力25ktの『コマンダン・リヴィエルCommandant Riviere』級フリゲートが1962年から1965年にかけて9隻が竣工している。

 潜水艦はドイツから賠償艦として得たXXI型潜水艦をベースに設計された水中排水量1,910tの『ナルヴァルNaval』級が1957年から1960年にかけて6隻建造された。続いて、地中海西部などの近海作戦用に水中排水量669tの『アレテューズArethuse』級が1958年から1960年にかけて4隻建造されている。本級は対潜作戦用の潜水艦として非常にコンパクトで意欲的なものであったが、いささか過小にすぎる面は否めず、1964年から1970年にかけて拡大改良型と言える『ダフネDaphne』級11隻が建造された。同級は水中排水量1,043t、水中速力16kt、兵装として550mm魚雷発射管12門を装備した実用性の高い潜水艦であり、南アフリカパキスタンポルトガルなど外国にも多数輸出され、スペインではライセンス生産も行われている。

 

10-4. フランスのNATO軍事機構脱退

 NATOの一員として戦後再建が進められ、徐々に戦力を回復しつつあったフランス海軍であったが、第五共和制の発足に伴ってその役割は少しばかり変化するようになる。ソ連大陸間弾道ミサイルの技術を手に入れた今、米ソ両国は核を安易に使えず、両者の対立は緩和しつつあるとドゴールは認識しており、全面核戦争を想定していたNATOの組織構造に変革が必要であると考えていた。1958年9月、政権に復帰したドゴールは、NATOの運営は核を保有する米英の独占ではなく、フランスを加えた米英仏三頭体制で行うこと、またNATOの防衛範囲をフランスの影響圏であるアフリカまで拡大することを求める覚書を米英に提出した。アメリカのアイゼンハワー大統領は、大使級の常設委員会の設立や、米英仏三国による常設核管理グループなど、ドゴールの唱える「効率的な同盟と役割分担」という意見には賛成したが、アメリカがいないところで同盟国が決定を行うことを懸念し、現存の機構は十分西側の防衛に適しているとしてこの提案を拒絶し、イギリスもまた同様であった。ここから次第にドゴールはNATOから距離を置き始める。1959年1月、フランスはいまだ情勢が不安定なアルジェリアとの連絡を保つためフランス地中海艦隊の指揮権を取り戻すことを要請し、NATOもこれを承認した。1963年6月には大西洋艦隊もNATO指揮下から外れ、1964年4月にはNATO司令部からフランス海軍将校が引き揚げた。

 そして1966年3月、ドゴールはNATO軍事機構からの脱退をついに表明した。アメリカに近い立場のイギリスとオランダはこのフランスの決定を激しく批判し、西ドイツは不安に陥り、イタリアはフランスとの論争を避け、カナダとポルトガルはフランスの行動を批判しながらも一定の理解を示す慎重な姿勢をとった。NATO軍事機構の脱退は、前述した米英仏三頭体制の構築(ドゴールは1963年頃まで提案し続けた)が不成功に終わった結果であり、軍隊の指揮権を巡るフランスの主権回復が目的であった。脱退を表明する一方で、ドゴールはNATOへの協力をフランスが完全に否定するわけではなく、フランスは今後もNATO加盟国の地位を維持すると説明している。ソ連の脅威低下、欧州の復興、第三世界(東西陣営に属さない国、地域)での紛争と、成立時とは異なる環境に現状のNATOは適応しておらず、アメリカの支配体制が強まる中、フランスの兵力がNATO、実質的にはアメリカに統合されていくのがドゴールには受け入れられなかった。ドゴールは同盟というものを否定することはなかったが、フランスが危機に陥った時にアメリカが本当に核ミサイルを発射してくれるのかという疑問を常に持っていた。

 「フランスの国防はフランスのものでなければならず、フランスを守るための戦争はフランスの手によって行われ、戦争遂行のための努力は当然フランスが行う。必要に応じてフランスの国防は他国の国防と結びつくことがあるが、その場合も国防のための手段はフランス自身の手になければならない。フランスは自分自身を、自分自身のために、自分自身のやり方で防衛する必要がある」とかつて語ったドゴールは、フランスがワシントンで書かれた命令書に従うだけの同盟国となることを拒絶したのであった。NATO脱退の根拠としてフランスの核保有が挙げられることもあるが、1962年の憲法改正(大統領選挙への直接選挙導入)後に行われた1965年の大統領選挙で再選を果たし、自らの政治的正統性を確認したドゴールがとった対米自立外交の一端と見るべきであろう。

 ドゴールが説明したとおり、フランスは軍事機構脱退後もNATO加盟国の地位を維持し続けた。NATO北大西洋理事会、政治委員会、経済委員会、防空警戒システムなどにフランスは参加しているし、西ドイツにはフランス軍二個師団を駐留させ、NATO軍最高司令部に連絡将校を配属し、フランス海軍も『クレマンソー』級が対潜部隊役として合同演習に度々参加している。フランスは自国を西側の忠実な同盟国とする一方で、同盟国との共同行動をとるか否かは自らが最終的に決定するという姿勢を崩さず、「NATOの予備役」とも言うべき存在となった。

 ドゴールは上記のような自立外交をとる中で、フランス海軍の戦略的役割をその優先順に「抑止、介入、防衛」と定義した。「抑止」とはすなわち、米英ソが保有していた原子力弾道ミサイル潜水艦のような核抑止力のことであり、フランスは1964年に同国初となる原子力弾道ミサイル潜水艦『ル・ルドゥタブルLe Redoutable』を起工し、1971年に竣工させている。続いて「介入」だが、前述したとおりフランスはアフリカ諸国が独立したあとも影響力を保持することに努めていた。国民所得比で最も多くの部分を外国の援助協力にあてていたのはフランスであり、その援助先は北アフリカ、西アフリカ、中央アフリカ、そしてラテン・アメリカと多岐にわたった。さらに、豊富な石油資源を持つ中東諸国に対して、武器の販売や発電所などのインフラ投資を行うなど、フランスは第三世界への援助外交を積極的に進めていたのである。現地政府がクーデタなどによって危機に陥った際に素早く兵力を展開して治安維持活動を行い、また第三世界の国々にフランスを印象づけるためにも『クレマンソー』級空母や『ウラガンOuragan』級揚陸艦などの遠方展開可能な戦力は重要なものであった。最後に「防衛」だが、これは「NATOの予備役」として必要な駆逐艦や潜水艦、そして海外領土を保護する護衛艦のことを指している。ドゴールにとっては、「抑止」が最も重要な要素であり、これが確立されていれば、次順の「介入」と「防衛」の自由は保障されると考えていたため、「防衛」のための戦力強化は後回しにされることが多く、戦後新造された国産艦艇は非常に長く使われることになった。

 自立外交を推し進め、フランス国民の自尊心を満たすことに成功したドゴールであったが、徐々にその政治的威信は弱まっていた。ドゴールが政権に復帰してから10年経った1968年5月、パリの大学生による学制改革運動から始まった抗議運動が、学者や労働者、労組などを巻き込んでドゴール体制への大規模な暴動へ発展した。いわゆる「五月危機」である。フランスは「危機」だとか「革命」といった単語に事欠かない国だとつくづく感じる。「改革はウィだが、バカ騒ぎはノンだ」と当初楽観視していたドゴールであったが、徐々にその事態が深刻なものと気づき、ポンピドゥー首相の説得で議会解散、総選挙に訴えた。各地で起きた暴動は統一されたものではなく、最初は抗議に共感していた市民や新聞社もその活動が過激なものとなるにつれて支持を減らしていった。総選挙によってドゴール派は初めて議会で単独過半数を獲得する逆転大勝利を得たが、ドゴールの政治的命運はもはや尽きていた。1969年4月、議会制度と地方行政改革国民投票にかけたドゴールであったが、過半数の支持を得ることができなかった。国民の支持がそのまま共和国大統領の正統性となると考え、今までの国民投票でも過半数が得られなければ辞任すると主張してきたドゴールは、この国民投票の敗北を受けて任期を残す形で潔く大統領を辞任した。自宅のあるコロンベ村に戻ったドゴールは政界にもう復帰する気はなかったが、自分がいなくなった後にフランスが第四共和制の時代に戻り、過去の過ちを繰り返すのではないかと心配していたと言われる。1970年11月、自宅で回想録の執筆を続けていたドゴールは大動脈瘤の破裂によってこの世を去り、若くして亡くなった次女アンヌが眠る場所に埋葬された。戦後フランスの一つの時代が終わった瞬間であった。

 

10-5. ポスト・ドゴール時代のフランス海軍と冷戦の終結

 ドゴールの後任となったのはドゴール派のジョルジュ・ポンピドゥーであった。名門校アンリ4世高校で教師を務め、大戦末期にドゴールに合流し、戦後はロスチャイルド銀行取締役を務めていたこともあるポンピドゥーは長くドゴールの顧問を務めたが、外交経験に乏しく、アメリカ、ソ連第三世界への外交スタイルは基本的にドゴールのそれを踏襲したものであった。ただし、前任者のドゴールが国家の安全保障を軍事面で見る傾向が強く、国際社会に対して挑戦的な態度をとることでフランスの威信を高めようとしたのに対し、経済界をよく知るポンピドゥーは経済面も安全保障に組み込むと共に、他国に対して協調的な姿勢をとった。例えば、「アメリカのトロイの木馬」としてイギリスのEEC(欧州経済共同体)加盟をドゴールは二度拒絶したが、ポンピドゥーはEEC内における西ドイツの影響力を懸念し、均衡を図る意味でイギリスの加盟を支持している。

 ポンピドゥーもフランス海軍の役割、特に「抑止」を重視していたが、冷戦の緊張が緩和する一方、世界各地で紛争が勃発する中、自国権益を保護し、あるいは国際社会からの要求に答えるためにも、他地域へと介入できる確実な手段を保有しておかなければならないと考えていた。当時ミサイルやレーダーといった軍事技術の発展は著しく、フランス海軍としても1950年代後半に建造された艦艇を長く使い続けることに不安を抱いており、ドゴールが定義した「抑止、介入、防衛」を継続可能な将来の艦隊計画がポンピドゥーのもとで1972年に策定された。これが「青計画(Plan Bleu)」と呼ばれるもので、これによればフランス海軍は1985年までに原子力弾道ミサイル潜水艦5隻、航空母艦2隻、ヘリコプター空母2隻、駆逐艦およびフリゲート30隻、潜水艦20隻などを中心とする近代的かつ大規模な艦隊を保有することになっていた。恒常的な遠方展開能力を維持するために『PH75』と呼ばれる原子力ヘリコプター空母が計画されるなど特色あるものとなっている。また当時は、海洋資源を巡る国際的な協議が盛んになっていた時期であり、フランス国内でも海外領土の重要性が再認識され、その権益を保護するための警備艦の新規建造も同計画には含まれていた。「青計画」に期待していたフランス海軍であったが、1973年10月の第一次オイルショックによってその前途は暗いものとなった。「栄光の30年」と言われた高度経済成長時代はついに終わりを告げることになったのである。物価上昇を抑えて賃金上昇を維持しようとする政府の政策には無理があり、失業率は増加し続け、野党はこれを材料に激しく政府を批判するなど、国内情勢は不安定なものとなっていた。加えて、この非常事態に対処しなければならないポンピドゥーは白血病に冒されており、1974年4月には任期を残す形でこの世を去ってしまったのである。

 慌ただしく行われた大統領選挙によって、ポンピドゥーのあとを継いだのは中道派のヴァレリー・ジスカール・デスタンであった。ジスカール・デスタンは高級官僚の財務検察官を父に持つ名門の出身で、フランスのエリート校である理工科大学校と国立行政学院を卒業した秀才である。長くドゴール派のもとで蔵相を務めた経験を持つが、ドゴールの政治スタンスに不満を示し、準与党とも言うべき独立共和派を結成していた。ジスカール・デスタンは、フランス外交をドゴールやポンピドゥーの対米自立路線から対米協調路線へと転換させることを図り、1974年12月にマルティニークアメリカのフォード大統領と会談し、フランスとNATOとの協力関係を盛り込んだ声明を発表するなど、アメリカおよび西欧諸国との友好的な関係を構築することに努めたが、第三世界への介入や農作物価格などの貿易問題ではアメリカと激しく対立した。

 ジスカール・デスタンが首相に任命したのは、大統領選挙で恩のあるジャック・シラクであった。忠実なドゴール主義者であったシラクは数週間に渡り国防研究を実施し、フランスはドゴール以来の「抑止」を今後とも維持し続けると共に、通常戦力の更新に努める必要があることをまとめ、ジスカール・デスタンも同様の声明を発表したが彼は財政専門家として予算策定に厳しい態度をとった。ジスカール・デスタンがまとめた予算案に対して国防委員会の議員たちは、政府の求める軍隊を作るためには軍事費が不足していることを指摘し、任務を減らすか予算を増やすかどちらかの対応を迫った。1976年に再度提出された予算案では従来更新が遅れていた陸軍戦力と、「抑止」のための核開発を維持することが示されており、海軍の予算は三軍の中で最も低い比率となった。

 大統領選挙では協力したが、もともとジスカール・デスタンと思想が異なるシラクは、大統領が首相の自由意志を圧迫しているという理由で1976年7月に辞任した。代わりに首相となったのは経済学教授を務めていたレイモン・バールであった。財政専門家であるジスカール・デスタンと「フランス最高のエコノミスト」であるバールは協力して経済の回復に取り組み、所得税自動車税の引き下げなどの対策を実施して1974年には17%にもなっていた物価上昇率を6%まで下げることに一時成功し、貿易収支も黒字を記録した。しかし賃金抑制政策などの面で政党や国民からの反発は強く、また運悪く1979年のイラン革命によって石油価格が高騰(第二次オイルショック)すると物価上昇率は再び二桁台に上昇し、失業率も増加してしまったことでジスカール・デスタンの国民からの支持は低下した。

 1981年の大統領選挙で当選したのはジスカール・デスタンを僅差で破ったフランソワ・ミッテランであった。第五共和制では初となる左派大統領の誕生であり、大統領就任直後の総選挙では社会党が圧勝した。ミッテランが閣僚に4名の共産党員を迎えたことは諸外国、特にアメリカを強く警戒させたがこれはミッテランの巧妙な戦略であった。オイルショックによる失業やインフレといった問題に対処するため、労組に強い影響力を持つ共産党を一時的に閣僚に組み込む一方で、長期的に政権に関与させることで同党の内部分裂を図ったのである。

 ミッテランは、前任のジスカール・デスタンがNATOとの協調関係を強めていたことに対抗するため、大統領選挙ではNATOの存在まで否定するなど反米姿勢を強く示していたが、就任後は現実路線に回帰している。1977年にソ連が中距離核ミサイルSS20を欧州地域に配備したことを巡り、1979年、NATOソ連にSS20の撤去を継続して要求すること、それが通らなかった場合は1983年末からアメリカの中距離核ミサイル、パーシングⅡを配備するという「NATO二重決定」を行った。パーシングⅡの受け入れ先である西ドイツでは当然ミサイル配備に反対する声は強く、他の加盟国でも意見が分かれ、NATOは分裂の様相を呈した。ミッテランは就任後、混乱が治まらない西ドイツに渡り、連邦議会アメリカのパーシングⅡ配備の必要性を訴えた。フランスは自国内へのパーシングⅡの配備を一切認めていなかったのだから、隣国の西ドイツに厄介事を全て押し付けようという何とも身勝手な話である。演説が効いたのか、西ドイツは1983年、パーシングⅡ配備を受け入れた。ソ連はこれに対して抗議を行うも、アメリカは欧州地域へのパーシングⅡの配備を予定通り進めた。四年後、長い交渉の末にアメリカとソ連巡航ミサイルおよび弾道ミサイルを含めた中距離核ミサイルを全て放棄することで合意した。後にキッシンジャーアメリ国務長官は「ミッテランは極めて良い同盟者であった」と語っている。

 このように、ジスカール・デスタンよりもNATOとの協調関係を強めていったミッテランであったが、「抑止」を重視する姿勢はドゴール、ポンピドゥー、ジスカール・デスタンの3人と変わりなかった。大統領就任後、ミッテランは、ソ連の通常戦力はNATOのそれを上回っており、核戦力についても近いうちにアメリカを凌駕することになるとした上で、「抑止」となる核戦力の役割が引き続きフランスの国防で重要となることを述べた。オイルショックに始まる不況、失業問題に対処するため通常兵力を削減することは避けられなかったが、1983年に議会を通過した予算案では空母2隻の建造(1隻は原子力空母)が認められていた。左派らしく(ミッテランイデオロギーに囚われない、臨機応変な対応をする政治家であった)企業の国有化などをピエール・モロワ首相のもとで進めたミッテランであったが、結果は赤字予算、資本の流出、私企業の経営意欲の衰退を招くなど散々であった。モロワに代わって首相となったロラン・ファビウスは、バールに似た緊縮政策と企業の活性化を目的とした減税措置をとるなど「小さな政府」のような方針を打ち出すことになり、以後社会党は経済問題において社会主義的な主張を強調することができなくなっていく。1986年に行われた議会総選挙ではシラク率いる保守派が圧勝し、ドゴールが第五共和制成立時に想像していなかった、大統領と首相が左右異なった勢力に支持される保革共存(コアビタシオン)という事態を招いた。シラクミッテランが実施した国有企業の民営化や減税措置といった政策を進めたが、ミッテランは大統領の権限は首相を超越するという姿勢を崩そうとはしなかった。大戦中からずっとドゴールに反感を持ち続け、ドゴールが第五共和制を成立させた後に同体制を「永遠のクーデタ」として批判したミッテランであったが、政権の座に就いてからは「共和制君主」と言うべき第五共和制を最大限に活用しようとしたのであった。

 1988年に行われた大統領選挙でミッテランは再選を果たしたが、1989年12月、地中海のマルタ島で行われた米ソ首脳会談によって、長く続いた冷戦の終結が宣言されたことを受け、アメリカや欧州諸国との関係見直しに追われることになった。「危険な平和」と呼ばれる冷戦が終結したことで、欧州諸国は軍事費削減の姿勢を強めていったが、フランスも例外ではなかった。新たな軍備計画では三軍ともに規模が縮小されることになったが、「抑止」となる核戦力の維持と更新は行われることが定められていた。最終的にフランス海軍は「青計画」を達成することができなかったが、可能な限りの戦力増強は行われており、最初からエグゾセ対艦ミサイルを装備した満載排水量5,800tの『トゥールヴィル』級駆逐艦が1974年から1977年にかけて3隻、『トゥールヴィル』級と同じ用途ではあるが、フランス海軍艦艇として初めて主機にガスタービンを採用した『ジョルジュ・レイグGeorge Leygues』級が1979年から1990年にかけて7隻、そして『ジョルジュ・レイグ』級をベースに対空ミサイルを搭載した『カサールCassard』級が2隻(計画では4隻)竣工している。

 潜水艦は、1977年から1978年にかけて水中排水量1,740t、水中速力17.5ktの『アゴスタAgosta』級が4隻竣工し、そして1983年から1988年にはフランス初の原子力攻撃潜水艦である『リュビRubis』級が4隻竣工した。『リュビ』級は『アゴスタ』級の原子力版とも言うべき潜水艦で、水中排水量2,670t、水中速力25ktと各国の同種艦の中でも最小のサイズである。1992年、1993年には改設計を行った『アメティストAmethyste』級が2隻建造(4隻から2隻に削減)されており、前述した『リュビ』級も『アメティスト』を範とした改装が実施されている。

 第二次世界大戦後、フランス海軍は第四共和制のもとで自らが推進してきた植民地の独立運動に対処する傍ら、NATOの一員として同盟に貢献するための戦力回復に努め、第五共和制発足後は歴代大統領が求める対米自立外交に応えるためにNATOから一歩距離を置く形で独自の戦力を構成した。かつて自らの存在意義のために獲得を支持した植民地は独立してしまったが、彼らは同じフランス語を話し、協力し合うパートナーとしてフランスと新たな関係を保つことになり、フランス海軍は両者を繋ぐ重要な役割を担った。第五共和政という「頭」が確立されたことで、冷戦という緊迫した情勢の中でもフランスは比較的安定した体制を維持し、国家から与えられた一貫した任務を遂行することにフランス海軍は集中できたのである。フランス海軍の任務は多岐にわたったが、冷戦期におけるフランス海軍の第一義は何であったか。それは本文中でも何度か述べたが、ドゴールをはじめ、歴代大統領が繰り返しその維持を主張した「抑止」、つまり人類の飽くなき探究心によって生まれた核兵器を用いて共和国の守護者たる「核抑止力」となることだった。

 

次回は「フランスの核」です。

 

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