フランス海軍通史 第十一回:フランスの核

前回(第十回:冷戦とフランス海軍―第五共和制の成立と冷戦―)の続きです。

 

 

11-1. 第四共和制の核開発

 前回述べたとおり、第二次世界大戦後のフランス海軍の第一義は「抑止」であり、現代のフランス海軍を語る上でその核戦力に触れないわけにはいかない。フランスの原子力研究は1945年10月、「科学、産業、国防のすべての分野における原子エネルギーの利用のために科学技術研究を行うこと」を目的に、ドゴールによって設立されたフランス原子力庁(以下CEA)を中心に現在まで進められている。設立当初のCEAは、技術研究を行う科学局と、行政上の管理と運営を行う総務局で構成されていた。科学局長官には、有名なキュリー夫妻の娘婿であり科学者でもあるフレデリック・ジョリオ・キュリーが、総務局長官には戦前キュリーの原子力研究を支援していたラウル・ドートリーがそれぞれ就任している。戦後フランスの最も重要な課題は経済復興であり、フランスは基本的に核兵器に関しては米国の核の傘に依存する方針を取っていたため、CEAは専ら民生利用のための原子力研究を行っていた。戦争中、レジスタンス運動に参加し、共産党に入党していた経歴を持つ平和主義者であったキュリー長官は、原子力は復興と発展のために利用すべきであって、フランスは核兵器を持つべきではないと常々主張していた。アインシュタインなど核兵器に反対する科学者たちと親交があり、多くの科学者から尊敬されていたキュリーのこの主張は、原子力開発に対するフランス政府公式の見解と見なされている。もちろん、キュリーのこの主張はフランス政府が実際に抱いていたものとは異なる。政府は核兵器保有することによって政治的な「大国」の地位を確保することを望んでいたからである。アメリカは戦後、核兵器の独占のために原子力法(マクマホン法)を成立させ、他国に核技術を渡らせないことを企図していた。これはソ連やイギリスの核実験成功によって早々に再考を促されることになるのだが、核保有国となった国々は他国の核開発を阻止しようと動いている。アメリカやイギリスの協力が得られない中、核兵器開発に必要な技術研究を続けたいフランス政府にとって、原子力の平和利用を「フランスの声」として世界に向けて発信し続けるキュリーは都合の良い存在であった。

 しかし、核兵器の使用禁止を求めるストックホルム・アピールをキュリーが主導し、原子力の平和利用を強く推進する姿勢を見せると政府首脳陣も態度を改め、1950年4月にキュリーは長官を解任される。そのあとを継いだフランシス・ペランも同じく原子力の平和利用を唱えていたが、1951年に科学局を総務局の下に置く組織改革がドートリーらによって行われたことで、CEAの政治的独立性は失われた。同年、死去したドートリーに代わって、大戦中ドゴールの下で国内レジスタンス運動の秘密工作員として活動し、戦後多くの国家プロジェクトに関わっていたピエール・ギョマがCEA長官に就任する。ギョマは就任してすぐ核兵器開発を担うことを目的とした「総合研究班」を設置。同班はのちに「軍事応用局(DAM)」と改名され、現在に至るまでフランスの核兵器開発の中核的存在となる。ペランを中心とした核兵器開発に反対する科学者たちは、CEAが取り組もうとしていた大規模な発電用原子炉建設計画にフランス電力(EDF)を参入させ、CEAを「原子力の平和利用」の側に置こうと試みたがこれはあまり効果がなかった。EDFが参入したことによって、政府が「原子力の平和利用のため」と内外に説明する良い材料に使われてしまったからである。この原子炉建設計画を巡る議会審議では、共産党が同計画下での核兵器開発を禁じることを要求したが、右派に加えて社会党までもがこの要求に反対したため、核兵器開発に対して特に言及されることもないまま審議は終了している。軍部はどうかと言うと、1951年にはABC(核・生物・化学)兵器に対応するための「特別兵器対策班」が軍内部に設立された。その班長に任命されたシャルル・アイユレ大佐は、核兵器の費用対効果と実現性を早急に調査した上で、早くも翌年に「フランスは一刻も早く核兵器保有すべきである」と政府へ提言している。政府と軍部における核兵器保有に関する意思は確実に固まっていった。

 核兵器開発を秘密裏に進めていたフランスであったが、国際情勢の変化によって名言を避けられない状況になっていった。まず、フランスが提案し自らその批准を否決したEDCの草案では、加盟国が核兵器のような重大な兵器を許可なく保有することを禁じる条項が盛り込まれていたが、仏外務省はCEAから何の了承も得ずに話を進めていたため、これを知ったギョマがあらゆる手段を使って潰しにかかっている。EDC自体は、当時の状況を考えればギョマの行動がなくとも否決されていたと思われるが、フランスがEDCを否決したことは、アメリカ含めた同盟国にフランスの核兵器保有の意思を印象づけるものとなった。次に、インドシナ戦争の敗北とNATOの新戦略である。敗色が濃厚になってきたインドシナ戦争で、フランスのプレヴァン首相やビドー外相、エリー司令官はアメリカに対して空爆の支援を要請(ベトナムへの原爆投下)していたが、アイゼンハワー大統領はこれを受け入れることはなく、フランスはディエンビエンフーの戦いで敗北し、インドシナから撤退することになった。(植民地の維持という面もあったが)東南アジアの共産主義化を防ぐという名目のもとアメリカの支援を受けて戦争を続けていたフランスにとって、このアメリカの拒絶は大きな衝撃であり、同盟への懐疑を呼び起こすことになる。そしてディエンビエンフーの敗北と同じ年、NATOの基本戦略が核兵器による「大量報復」となり、国家安全保障の中における核兵器の役割は大きなものとなっていた。かつてEDCを提唱したプレヴァンは、「近い将来、核兵器を生産し配備する国だけが大国を自称することが出来るようになるだろう」と公の場で述べている。

 1954年10月、マンデスフランス首相は核兵器開発計画をより具体的なものとすることを目指し、1250億フランにもなる核兵器開発プログラム(前述した発電用原子炉建設計画の予算は400億フラン)を立ち上げるとともに、国防省CEAの混合委員会である「核爆発物委員会」を設立した。同委員会は12月、プルトニウム生産を行う原子炉やサハラ砂漠核実験センターの新設、原子力潜水艦の建造などを含めた報告書をマンデスフランスに提出し、以後フランスの核兵器開発はこれに沿って進められていった。陸海空軍はCEAに対して要員を派遣し協調体制の整備を進めたが、核兵器開発のための人員、予算、設備などはすべてCEAに依存しなければならない状態にあったため、軍部が核兵器開発の主導権を握ることは基本的に不可能だった。

 核兵器開発計画を推し進めたマンデスフランス自身は、フランスが原爆製造に実際に取り組むのはそれが必要になった時で問題ないと考えていたが、フランスに核兵器保有の意志を決定付ける事件が発生する。1956年、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化計画に対して、イギリスとイスラエルと手を結んで軍事行動をとった、いわゆるスエズ動乱である。軍事的には成功したものの、アメリカとソ連の介入を受け(特にソ連核兵器の使用まで仄めかした)、両国は派遣した軍隊を撤退させるしかなかった。イギリスとフランスは世界各国から批難されただけでなく、ソ連の恫喝に何もできない自分たちがアメリカに従属する立場でしかないことを改めて痛感したのである。イギリスはこの後、現在まで続く緊密な同盟関係をアメリカと構築することに注力するが、フランスはアメリカと距離を置くようになり、核兵器の開発を積極的に進めた。さらに、1957年にソ連スプートニク号の打ち上げに成功し、アメリカの核の傘への不信が高まったことはフランスの核開発を勢いづけた。核実験の研究と戦略爆撃機の試作がモレ内閣(1956年2月~1957年5月)のもとで認められ、1958年にはガイヤール内閣(1957年11月~1958年5月)が原爆製造を決定した。1958年4月、フランス政府として初めて公に核兵器開発を認める発言をガイヤールが行ったとき、前年10月から建設が始まっていたサハラ砂漠核実験センターの工事はすでに佳境に入っていた。このように、フランスの核兵器開発は政府、軍部、CEAと一部の関係者だけが知る中で進められており、例えば総合研究班の予算は対外資料防諜局(詳細な予算の使途の提示を免除されている情報機関で現在の対外治安総局(DGSE)。アメリカのCIAやイギリスのMI6に相当)の予算案の中から支出されていた。親米外交に傾倒し、脆弱な印象の絶えない第四共和制だが、前身となる第三共和制が第二次世界大戦の緒戦でドイツ軍に敗北し、アメリカとイギリスの軍事力がなければフランス本土の解放が出来なかった、という覆すことのできない屈辱的な事実を忘れていたわけではなかった。相対的に国力が低下したフランスの大国としての地位の模索と、圧倒的な軍事力(=核兵器)を持つことの重要性を、フランス第四共和制指導者が認識していたことは疑いようがないだろう。

 

11-2. 核実験禁止条約とフランスの核実験

 1958年6月、アルジェリア独立問題で国内が分裂しかかっていた政界に復帰したドゴールは、第四共和制の核開発を受け継いだ。核開発を主導するCEAを設立したのはそもそもドゴールであったから、自らが蒔いた種を収穫したと言って良い。「独自の核防衛を持たない国の運命は、消滅するか、核大国の奴隷になるかのいずれかしかない」と最初の閣議でドゴールは述べ、核兵器の独自開発を国内外に正式に発表した。当時は、1954年3月に起きた第五福竜丸事件から続く反核運動が世界中に広がっている時期でもあった。すでに核兵器保有しているアメリカとソ連は、こうした国際世論への対応と核兵器のさらなる拡散を防ぐべく、核実験禁止条約について交渉を続けていたが、核実験の禁止範囲(包括的か部分的か)、査察体制の在り方などを巡って折り合いが中々ついていなかった。ドゴールは(核兵器に代わる新兵器や安全保障体制の構築などはともかく)、世界から核兵器が無くなる「真の核軍縮」が実現されればそれに越したことはないと考えていたが、アメリカとソ連が交渉している核実験の禁止は、核軍縮という観点から見てそれほど意味のあるものと思わなかった。仮に数多くの核実験を実施してきたアメリカとソ連が核実験を禁止されたとしても、条約では核兵器の廃棄が義務付けられるわけでもないため、今までに蓄積してきたデータを使って両国は無尽蔵に核兵器を生産することができる。核兵器による戦争抑止という概念を両国が受け入れつつある以上、それぞれが真の意味で核軍縮に向かうことはないとドゴールは考えていたのである。さらに、核開発が初期段階にあったフランスにとって、核実験禁止条約は部分的であろうが包括的だろうが核開発を大きく制限する存在であり、到底受け入れられるものではなかった。アメリカとソ連がすでに実施し、将来的にはフランスも開発する予定の水爆の実験は非常に大規模な爆発が起こるため、大気圏内での実験が必要不可欠であった。また、地下核実験施設も完成していなかったフランスは先の水爆実験も含めて大気圏内の核実験に依存するしかなかったため、米ソが交渉をすすめる核実験禁止範囲に大きな懸念を持っていたのである。

 ドゴールは、核実験禁止条約の交渉をすすめるアメリカとソ連に対し、「真の核軍縮」を提案する。「緊張緩和と核軍縮のために本当に実施すべきなのは核実験の禁止などではなく、実際に核兵器を運搬する手段、つまり戦略爆撃機やミサイル、水上艦や潜水艦の削減あるいは廃棄である。核大国であるアメリカとソ連が、核兵器運搬手段の削減および廃棄、そしてその査察に踏み切れば、フランスも核実験の実行を保留し、核実験禁止条約の実現に向けた行動をとる」といった内容であったが、これは両国に受け入れられなかった。アイゼンハワーはドゴールの主張に一定の理解を示すも、ソ連の圧倒的な通常兵力に対する報復戦力としての核戦力を削減することは、アメリカの核抑止力の信頼性を低下させ、NATO加盟国間に動揺を与えてしまう恐れがあるとして積極的になれず、またアイゼンハワー自身の大統領任期が残り少ないものとなっていたため、このような重大な政策を実行に移すことはできなかった。一方、自陣営の通常兵力がNATOのそれを上回っていることを認識していたフルシチョフは、核兵器運搬手段の廃棄に肯定的な回答を示すなど、仏ソの核軍縮に対する考えが近いことをドゴールに対してアピールした。しかし、ソ連アメリカとの核実験禁止交渉と同様に、相手国が立ち入って行う査察には反対した。実際のところ、フルシチョフソ連の核戦力がアメリカに比べて劣っていることを認識しており、この時点では部分的にも包括的にも核実験を本気で禁止しようとは考えていなかった。両国が真の核軍縮に向けて本格的に取り組む気がないと確認したドゴールは、核実験禁止条約がフランスや中国などの核開発途上国、そして非核保有国に核保有を諦めさせ、両国が核戦力の現状維持あるいは増備によってそれぞれの支配圏を暗黙の内に保障する政治的目的なものでしかないと認識するに至った。

 1960年2月13日、フランスはサハラ砂漠で同国初の核実験に成功する。その後も1960年4月、1960年12月、1961年4月と核実験を繰り返し、四回目の核実験では航空機搭載可能なレベルまで核爆弾の小型化に成功したことを公表した。いずれの核実験もアメリカ、ソ連、イギリスの三カ国が核実験を停止している期間に実施されたため、アフリカやアジア諸国からは激しい非難を受けたが、アメリカとソ連による本格的な核軍縮が実施されず、核開発がようやく軌道に乗ったフランスが核実験を停止する理由はなかった。広島と長崎に投下された原子爆弾の威力を目の当たりにした数多くの人々と同じように、ドゴールもこの破滅的な威力を持つ恐ろしい兵器が実用化されたことに絶望したといわれる。「真の核軍縮」が実施されることは、彼自身望んでいたことではあった。しかし、同盟国のアメリカ、イギリスと仮想敵国のソ連核兵器を着々と開発し、実際に配備を進め、各国がそれを戦争防止の抑止力として考えつつある中で、到底その実現はあり得なかった。そんな中、フランスが主権国家として、スエズ動乱の時のように他国の核戦力に恫喝されて外交の自立性を失わず、そしてフランス本土を焼け野原としないためにもやはり核兵器は必要だったのである。

 「フランスは世界平和の実現のため、真の核軍縮の在り方を模索し、すでに膨大な数の核兵器保有しているアメリカとソ連に対し、航空機や潜水艦といった核兵器運搬手段の廃棄という、極めて具体的で効果が高い軍縮案を提示したが、両国ともそれを受け入れることはなかった。核保有大国のアメリカとソ連の間で核軍縮が実現できない以上、この不安定な国際情勢の中、核開発途上国のフランスは未曾有の核の脅威から自国を守り、そして他国にその主権を侵害されないためにも核実験を続行し、核開発を進め、核を保有せざるを得ない」――フランスもついに念願の核保有国の仲間入りを果たしたのであった。

 

11-3. 第五共和制の核開発

 フランスの核実験は前述したとおりアルジェリアサハラ砂漠で行われたが、同地は1962年にフランスからアルジェリア民主人民共和国として独立する。核実験を継続して行う必要があったフランスは、独立交渉時にアルジェリアと核実験に関する協定を締結しており、その内容はサハラ砂漠での核実験を五年間継続する権利をフランスが得ること、その代わり早期に地下核実験に移ることなどであった。1961年にはサハラ砂漠に地下核実験施設を建設して地下核実験に移行し、1966年には約束通りこの施設を閉鎖している。1962年、フランスはサハラ砂漠に代わる実験場として南太平洋のフランス領ポリネシアを選択し、1966年には同地域のムルロア環礁に新設した太平洋実験センターで大気圏内の実験を再開した。1968年8月にはドゴールが待望していた水爆の実験が実施されている。この間、1963年にはアメリカ、ソ連、イギリスの間で部分的核実験禁止条約が締結されたが、フランスは前述の理由から加盟していない。だが大気圏内の実験に対する国際世論の反対は強く、フランスも1972年には地下核実験への移行を決定した。1975年以降、ムルロア環礁やファンガタウファ環礁に縦坑を掘って行う地下核実験に移行し、1992年にミッテランが核実験を停止するまで続けられた。

 しかし1995年、ミッテランのあとに大統領となったジャック・シラクは前政権の核実験停止は尚早であったとして核実験の再開を公表する。核実験再開後、必要なデータ収集が完了すれば包括的核実験禁止条約に調印することをシラクは強調したが、オーストラリアやニュージーランドはこの核保有国の身勝手な主張に憤慨し、軍事協力を凍結することを表明した。このフランスの決定に対しては、オーストラリアやニュージーランドといった、核実験の影響を直接受ける可能性がある南太平洋諸国だけでなく、アメリカや日本も遺憾を表明している。内外の反対が強かったこともあって、1996年1月に行われた六回目の核実験を最後に、シラクは核実験の終了を宣言し、包括的核実験禁止条約や南太平洋非核地帯条約へフランスが加盟する意志があることを発表した。同時に、フランスが核軍縮と欧州の安全保障に積極的な役割を果たす準備があることをシラクは会見で述べている。翌月には、数年前から予定されていた、大幅な核戦力削減を含めた国防計画を発表し、核実験を終了したフランスが核軍縮に向けた動きを具体的にとっていることを示している。

 ただ、フランスは根本的には核廃絶といったものを進める気はあまりない。日本が加盟しなかったことで一時期話題になった、核兵器の開発、製造、保有などを禁じる核兵器禁止条約(2021年1月発効)に対しては、フランスに加盟の意志がないことを即座に示している。さらに、同条約に対して、軍縮は勝手に宣言するものではなく築くものであり、本条約はいかなる核兵器の除去ももたらさないと批判した。後述するが、フランスはドゴールの時代から、核兵器を自国の絶対的な国防手段、そして政治的行動の自由を確保するための最終的な担保としてずっと考えている。乱暴な表現かもしれないが、フランスにとって核兵器がなくなることはフランスをフランスたらしめる存在の喪失と同義なのである。核兵器禁止条約発効から3ヶ月後の4月28日、フランスは陸上施設から潜水艦発射型弾道ミサイルの発射実験を行っており、フランスが核抑止力維持の努力を怠っていないことを改めて国内外に強調した。

 核兵器禁止条約自体は核兵器を無くすことに実質的な意味を持たないが、フランスを含め、核を保有する民主主義国家や核(保有国)の傘に依存している同盟国は、国内で起こる同条約に対する国民からの要求に対処する必要があるだろう。そうした運動はすでに日本国内でも見られるようになってきている。確かに核兵器は忌むべき存在であり、無くなればそれに越したことはないと思う(そうした世界は人類全体が思考を半ば停止させ、管を通してただ栄養をとっているだけの状態かもしれない)が、生半可な平和主義者が原爆ドーム前でどんなに演説をしようとも、実際に核兵器保有し、我々と異なる価値観を持つロシア、中国、そして北朝鮮といった国々がすぐ近くに存在するのは変えようがない事実であり、そうした状況下では今後も核兵器は必要であろう。

 

11-4. 蜃気楼と「ちゃちな爆弾」

 フランスの核開発については前述したとおりである。ただ、当然ではあるが、核弾頭は自動的に敵国の首都に向かうわけではないのでその運搬手段が必要となる。フランスでも核弾頭の開発と並行して運搬手段の開発が行われており、最も早く実用化されたのは航空戦力、ミラージュⅣ戦略爆撃機であった。ダッソー社と弾道ミサイル研究開発会社(SEREB、のちアエロスパシアル、現在はエアバス・グループ傘下のMBDA)との協力下で開発されたミラージュⅣは、ドゴール立ち会いのもと1959年の航空ショーで原型機が初めて公開された。戦略爆撃機と言ってもアメリカのB-52、ソ連のTu-95、イギリスの3Vボマー(バルカン、ヴィクター、ヴァリアント)のような大型機ではなく、マッハ2以上の速度を発揮可能な超音速中型爆撃機といったもので、サイズ的にはアメリカ海軍が同時期に航空母艦で運用していたA3Dスカイウォーリア攻撃機に近い。60kt弾頭のAN-11核爆弾を搭載し、のちにAN-22核爆弾を搭載するようになった。ミラージュⅣは1960年代後半から配備が始まり、アメリカから輸入したKC-135(フランス空軍名称C-135F)空中給油機と合わせて「戦略航空隊」が結成され、15分以内に最低一個の飛行隊がソ連への核攻撃に向かえる体制が構築された。本来であれば、空中給油無しで往復できる改良機(空中給油は可能)を配備したいところであったが、機体の大型化に伴うコスト増を理由にアメリカからの空中給油機導入でお茶を濁したというのが実態である。実際に使用可能な核戦力を手に入れたことでフランスの発言力は大きくなり、ドゴールもミラージュⅣをフランス独自の核戦力として内外に誇示していたが、これには苦言を呈する者もいた。

 アメリカのマクナマラ国防長官は、核抑止力は敵の第一撃(先制攻撃)を生き延びることが可能な第二撃(報復攻撃)戦力の構築によって成立するものであり、フランスの小規模な航空戦力ではその戦力と成るには不十分と考えていた。マクナマラはミラージュⅣのような第一撃に依存するフランスの体制はソ連からの先制攻撃を誘発するものとしてその脆弱性を指摘している。また、フランスの著名な社会学者、哲学者、そして政治学者であるレイモン・アロンは、ドゴールが誇示する核戦力にマクナマラと同様の批判を行った。ミラージュⅣのような航空兵器は空中でも地上でも敵からの攻撃に脆弱であり、フランス独自の核戦力としてもアメリカの核の傘を補完するにも不十分であるというものである。現実的に考えて、ミラージュⅣがいかに優秀な超音速爆撃機と言っても、ソ連の防空網を突破して同国の都市に核攻撃を行うというのは難しいものがあった。ソ連からの攻撃が確認されていないのに、ミラージュⅣを出撃させる(攻撃されていないのに「報復」を行う)フランス大統領がどこにいるのか、というのはアロンの言葉である。さらに、アメリカとソ連の圧倒的な核戦力の前ではミラージュⅣが搭載する核爆弾など「ちゃちな爆弾」に過ぎないと、ドゴールが唱える「フランス独自の核戦力」を批難する野党議員もいた。

 当初は高高度での領空侵入後、核爆弾による都市攻撃を行うことを考えていたミラージュⅣであったが、ソ連の防空網が強化されていることが判明するとそれが非現実的であることが明らかとなり、低空からの精密誘導攻撃への切り替えが検討されている。1970年代初頭には核弾頭の装備も可能な空中発射型巡航ミサイルの開発が開始され、これはのちにASMPとして1986年から配備が行われることになった。このASMPは、高高度をマッハ3で飛翔して目標に急降下するモード、低高度をマッハ2で飛翔して目標寸前でポップアップしてから命中するモード、そして自身と同じように低空侵攻を試みる敵編隊の鼻先に向けて発射して空中で起爆するモードの3種類がある。フランス海軍では1989年から『クレマンソー』級航空母艦エタンダールⅣ艦上攻撃機の後継となるシュペル・エタンダール艦上攻撃機で運用能力を取得している。登場したばかりのミラージュⅣはその名前通り、核戦力としての有効性が不鮮明なものとなったが、ドゴールは「フランス独自の核」である「ちゃちな爆弾」の使い方をどのように考えていたのであろうか。

 

11-5. フランスの核戦略―弱者の恫喝―

 核開発を積極的に推し進めたドゴールだが、彼にはフランスの核戦略に対する明確な構想はなかった。周囲の専門家が構築してきた理論を、ドゴールが自身の対米自立外交に合わせる形で採用したと言った方が良いかもしれない。フランスの核戦略構想に最も早くかかわったのは、戦前、日本海軍の著しい増強を目の当たりにし、フランス領インドシナの放棄まで主張していたフランス海軍のラウル・カステックス提督である。核兵器の威力を目の当たりにしたカステックスは、従来の兵器と一線を画する核兵器には保有数の優劣と言った理論は適用されず、その破壊力に効率的な運搬手段が合わされば小国でも大国を破滅に導く攻撃が可能であると述べた。欧州海軍の中で相対的に「強大な弱者」であったフランス海軍の提督が、こうした理論をいち早く唱えているのは興味深い。さらにカステックスに続き、フランスの核開発に初期段階からかかわっていたフランス空軍のピエール・ガロワ将軍は、核兵器の破壊力は敵性国家の軍事的優位性を帳消しにするという「核の等化力論」を提示した。両者の思想は、たとえ量的に劣勢な核戦力でも、侵略の代償があまりにも受け入れ難いものと敵に認識させることでそれは十分有効な抑止力となる、といういわゆる「比例的抑止論」であった。カステックスやガロワらが中心となって構築された比例的抑止論は一定の理解を得られたが、この核戦略に対する異論がないわけではなかった。

 ミラージュⅣの有効性に疑問を投げかけていたアロンは、ガロワらの比例的抑止論を完全には否定しなかったが、ドゴールが求める対米自立外交のために、その理論を無理やり押し通すことには反対した。フランスの安全保障のためにはアメリカの協力が必要不可欠である。フランスの核戦力は、アメリカのそれを補完する立場にあるべきであって、「フランス独自の核戦力」と称してフランスの「偉大さ」の宣伝に無闇やたらに使用するものではない。また、フランスが単独で核戦力を保有するためには予算の多くを投入しなければならず、軍備は核戦力一辺倒のものとなってしまう可能性がある、といった内容である。アロンはフランスの核武装に反対していたわけではなく、むしろ推進する立場にあって、この点ではドゴールと同じであったが、彼はアメリカと友好な関係を維持した中でNATOの戦略に合致する(フランスの)核武装を求めたのであった。議論は長く続いたが、結局ガロワらが唱える比例的抑止論を採用する流れとなり、1964年2月にはピエール・メスメール国防大臣が主導して創設した「予測・評価センター」で、対都市打撃力を中心とする核戦略の方針が決定された。同年7月の記者会見でドゴールはフランスの核戦略について次のように述べている。

「もちろん、我々が発射できる核兵器のメガトン数が、アメリカ人やロシア人が繰り出すことのできる核兵器と同等数になることはありえない。しかし、ある一定の能力以上になれば、しかも、各国の直接の防衛が関わってくれば、それぞれの兵器の比率がどうであるかといった問題は、絶対的な価値を持たなくなるのである。実際、人も国家も死ぬのは一回だけである。抑止というものは、侵略者に致命的打撃を与えることのできる能力を持ち、それに対して固い決意を持ち、そしてそのことに自分自身十分に納得している時に、成立するのである」(『フランスの外交力』より引用)

 こうして、「強者に対する弱者の恫喝」こと比例的抑止論がフランスの公式な核戦略となった。また、ガロワと共にフランスの核戦略に関わったボーフルは、フランスの核兵器が使用される場合には、敵性国家に対してアメリカ(やイギリス)がフランスに続いて核兵器を使用する警告になるという「引き金論」を唱えている。1967年には、ソ連だけでなくあらゆる攻撃からフランス本土という聖域を核戦力によって防衛するという「全方位戦略」をシャルル・アイユレ参謀総長が発表した。対都市打撃を中心とした比例的抑止論は、フランスの核戦略としてその後も長く採用され続けることになったのである。

 余談だが、中国が核開発を進めていた1960年代後半、ガロワは日本の政府高官に対して核保有を促す助言をしている。ガロワによれば、世界の国々は、同盟国全てを防衛できるだけの核戦力と影響力を持つ米ソのような大国、自国の防衛のため限定的な核戦力を保有する英仏中のような中級国家、そしてそれ以外の国(非核保有国)の三つに分類することができる。中国という現実に存在する脅威に対抗するため、日本は速やかに国内の意志を統一して我々と同じ核保有国になるべきだ、といった内容であった。日本国内では核兵器に関する検討が開始され、技術的には十分可能であることが確認されたが、費用が莫大であること、そして日本の核武装はかつての軍事国家、大日本帝国を想起させ、国際社会に与える影響が大きすぎることから「アメリカの核の傘に頼る」のが懸命と判断された。日本の核保有については、これを含めて戦後何度か議論が行われているが、周知の通り2021年の現在に至るまで、日本が実際に核を開発し、保有したことはない。

 

11-6. 原子力弾道ミサイル潜水艦の誕生

 前述した通り、フランスの核戦略に関して確固たる思想をドゴールは特に持っていなかったが、アメリカと同様の核戦力を持つことは企図していた。核の三本柱、すなわち爆撃機、地上発射型弾道ミサイル、潜水艦発射型弾道ミサイル(原子力弾道ミサイル潜水艦)である。爆撃機に関してはドゴールが政権に復帰した時点でおおよその形は出来上がっていたが、残りの二つはまだ実現されていなかった。特に、アメリカがすでに保有していた原子力弾道ミサイル潜水艦は、爆撃機や地上発射型弾道ミサイルと違って海中を移動するため非脆弱性が高く、マクナマラが指摘したフランスに欠けている報復攻撃戦力を担うものとして大いに期待された。しかし、当時フランスに原子力潜水艦は一隻もなく、就役していた潜水艦は『ナルヴァル』級(1,910t)や『アレテューズ』級(669t)、あるいは建造中の『ダフネ』級(1,043t)と小型から中型といったサイズの通常動力型潜水艦が中心であった。通常、原子力潜水艦の開発は、潜水艦および水上艦の攻撃が主任務の攻撃型潜水艦を開発(潜水艦用原子炉の実用化)した後、その実績を反映して、大型の弾道ミサイル潜水艦を開発するのが定石である。フランスは核開発期間の短縮を図って、原子力潜水艦技術(特に原子炉)、弾道ミサイルの制御装置や推進剤などの関連技術について、アメリカへ技術援助の要求を度々行っていたが、これは拒絶されていた。アメリカ政府首脳陣はフランスへの核技術協力に肯定的な姿勢を見せていたものの、それはあくまでもフランスの核戦力がNATOの指揮下に置かれることを前提としたもので、「核兵器の管理と運用の権限は、核兵器を実際に開発し製造した国にある」と考えるドゴールとアメリカの認識ギャップは埋まらなかった。また、アメリカ国内では、フランスのNATOへの反抗的な姿勢や、フランスが核を持つことによるアメリカの欧州への影響力低下などを理由に、議会や原子力委員会が中心となって反対していた。彼らは、フランスが核兵器開発を断念してアメリカの核戦力を受け入れる、あるいはドゴールの後に親米的な政権が誕生して政策を転換し、核開発を中止することに期待しており、フランスがアメリカから技術協力を得られる見込みはなかった。アメリカと同様の核戦力実現を最優先と考えるドゴールは、原子力弾道ミサイル潜水艦の開発を推し進めた。

 だが待ってほしい。フランスはこれより前、マンデスフランスが設立した核爆発物委員会の報告書に沿って原子力攻撃潜水艦の建造を一度計画しているはずである。この艦は一体どうしたのであろうか。『Q244』の計画番号を与えられた原子力攻撃潜水艦は、1958年にシェルブール海軍工廠で起工されている。同艦に搭載する機関として、濃縮ウランを調達できなかった当時のフランスは天然ウランを燃料とする重水炉(減速材に重水を用いる炉)の開発に取り組んでいたが、開発中の重水炉があまりに重いものとなってしまい、そのまま搭載してしまうと文字通りの潜水艦(可潜艦ではない)となってしまうことが判明したため、建造が中止されてしまっていたのである。この潜水艦は、のちに通常動力を搭載する潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)実験潜水艦『ジムノトGymnote』として設計変更され、1966年に竣工している。重水炉の失敗によって通常の水を使用する軽水炉を開発することになったフランスだが、燃料として必要な濃縮ウランはまだ国内で生産できていなかった。この事態を重く見たCEA長官のギョマはアメリカの要員と秘密裏に交渉を行い、濃縮ウラン提供の合意を得ることに成功。陸上用原子炉での実験を経て潜水艦用原子炉の開発を進めた。1964年にはフランスでも濃縮ウランの国内生産が可能となっている。

 1964年3月、シェルブール海軍工廠でフランス初の原子力弾道ミサイル潜水艦となる『ル・ルドゥタブルLe Redoutable』が起工された。1967年にはドゴールが見守る中で進水式が行われ、1971年12月に竣工している。同艦は排水量9,000t、機関には原子炉1基とタービン発電機2基からなる原子力ターボエレクトリックを採用し、水中速力25ktを発揮する。船体のほぼ中央に、SLBMを格納する16基の発射筒を二列に並べており、全体的なスタイルはアメリカ初の原子力弾道ミサイル潜水艦『ジョージ・ワシントンGeorge Washington』級とよく似ていた。肝心のSLBMについては、1968年に『ジムノト』が水中発射に成功した最初の型であるM1(射程2400km、500kt核弾頭)を装備し、竣工後さっそく哨戒任務についている。『ル・ルドゥタブル』に続き、フランス海軍は1980年までに同型艦を4隻、1985年には改良型の『ランフレクシブルL’Inflexible』を建造している。1番艦が竣工した1971年から6番艦が竣工する1985年までに15年近くかかっているが、これで常時2隻での哨戒が安定して可能となった。搭載するSLBMはM1に続いてM2、M20と順次改良が進められ、M4では射程が5,300kmになり、弾頭も150kt6個のMIRVとなっている。

 『ル・ルドゥタブル』起工の翌年、ドゴールは次のように述べた。「フランス海軍は、歴史上初めてフランス国防軍の主要な要素となった。そしてその重要性は一日一日とより確かなものとなっていくであろう」と。振り返ってみると、非常に長い道のりであった。17世紀初頭、リシュリューのもとでフランス王に仕えるべく創設されたフランス海軍は、海洋国家のイギリスやオランダの海軍と戦い、フランスの名声を大陸だけでなく海洋にまで広げたが、革命によって仕えるべき偉大な主を失ってしまった。革命後、共和制、帝政、王政と祖国の国家体制が頻繁にリセットされる中、フランス海軍は自国の巨大な大陸性というアイデンティティに抗いつつ、フランス王よりも移り気しやすい新たな主である「国家」への奉仕を続けた。国内での政治的立場が弱かったフランス海軍は、敵性国の海軍に対して技術革新で対抗しようとする王国時代からの伝統があったが、核兵器という圧倒的な技術革新によってその立場はついに大きく変わった。創設からおよそ340年の時を経て、ようやくフランス海軍は政府と国民から国家の防衛に大きな役割を果たす重要な組織と認識されるようになったのである。

 

11-7. 米仏核技術秘密協定とフランスの核戦力

 フランスが核開発途上の段階にあったとき、アメリカが技術協力を拒否したことはすでに述べたが、フランスが核実験を行った翌年の1961年、両国は核技術に関する秘密協定を締結していた。ただこの協定は、フランスの偉大な英雄としてドゴールを尊敬はしたがその対応に苦慮した若きケネディ大統領と、自国への反抗的姿勢を辞めないドゴールに対して諦めの境地に達していたジョンソン大統領が、フランスの核開発協力に消極的になったこともあって、ドゴール時代には実質的な意味を持っていなかった。この協定が効果を発揮するのは、ドゴールの辞任後、大統領となったジョルジュ・ポンピドゥーとアメリカのリチャード・ニクソン大統領の友好的な時代に入ってからである。1972年頃から、ニクソンは議会に咎められることなくフランスへ核技術支援を開始した。すでにフランスは、自力で戦略爆撃機原子力弾道ミサイル潜水艦を少数ではあるが開発しており、ニクソンは(イギリスと)フランスの核戦力がNATOに貢献していることを認めた上で、その戦力を最大限に強化することを図った。また、AMX-30主力戦車や、ミサイル駆逐艦などの通常戦力増強が遅れていた(通常戦力強化の要請に中々応じなかった)フランスに技術支援をすることで、浮いた予算をそちらに投入することを期待していた。この協定によって、フランスは核弾頭の小型化、ミサイルの推進や誘導システムなどの情報を入手し、フランス初のMIRVであるM4を実用化することができたのだった。

 1981年、第五共和制初の左派大統領として就任したミッテランは、「フランスの防衛は核抑止力に完全に依存しており、核兵器を廃棄することは自国の運命を他国の手に委ねるのに他ならない」と述べた上で、「フランスの核抑止力を信頼するに足る水準で維持していきたい」と(通常戦力ではなく)核戦力強化を優先する意思を表明する。余談だが、ミラージュⅣに搭載される核爆弾を「ちゃちな爆弾」と揶揄していたのはミッテランである。ドゴール時代にはその核政策を口撃していた左派政党であったが、1970年代後半にはほとんど反対を行わなくなり、ミッテランが就任してからは第四共和制期にフランスの核開発を推し進めた社会党の功績を宣伝していた。ミッテランの核戦力増強の意向を受けた当時の国防大臣は「陸軍一個師団よりも原子力弾道ミサイル潜水艦一隻の方が(フランスの)国防上の必要に合致する」と述べている。

 1990年代に入り、フランスは第2世代の原子力弾道ミサイル潜水艦となる『ル・トリオンファンLe Triomphant』級の建造を開始した。本級も『ル・ルドゥタブル』級と同じく当初は6隻建造する予定だったが、研究開発と生産それぞれの段階で四割ほど当初の予算を上回ったこと、また冷戦の終結による全体的な軍備縮小の影響もあって建造数は4隻へ減らされている。我が国の海上自衛隊の艦艇の堅実な建造ペースを見慣れている読者諸兄にあっては情けなく思われるかもしれないが、フランス海軍の建艦計画の縮小(と遅延)は、王国時代から続く伝統なので安心してもらいたい。ただし、隻数が削減されて工事ペースも落とされたとはいえ、配備時期は原計画と大きな差を生じず、1997年に1番艦の『ル・トリオンファン』が、2010年に4番艦の『ル・テリブルLe Terrible』が竣工し、『ル・ルドゥタブル』級との交代を完了した。『ル・トリオンファン』級は『ル・ルドゥタブル』級より大型になり、水中排水量は14,565t、前級と同様に原子力ターボエレクトリック機関を搭載し、水中速力も同じく25kt、自衛用に533mm魚雷発射管4門を装備し、魚雷に加えてエグゾセ対艦ミサイルを発射することも可能となっている。SLBMは当初、射程6,000kmのM45を搭載していたが、最新のM51シリーズであるM51.1やM51.2(射程9,000~10,000km)への換装が進行中で、現在は新型のM51.3の開発が進められている。

 フランスの原子力潜水艦の特徴として、燃料に使用するウランの濃縮率が低いことが挙げられる。原子炉の燃料であるウラン235は使用に伴って減少していくため、尽きてしまえば交換する必要がある。しかし、ただでさえ特殊な構造をした潜水艦に搭載した原子炉の燃料を交換する作業は費用も時間も莫大なものとなってしまい、その作業期間中は当然任務につくことができない。そのため、アメリカやイギリスの原子力潜水艦は艦齢分の燃料(最新では30年から40年分)を搭載しており、燃料となるウランの濃縮率は90%を超えているものが多い。一方、フランスが自国の原子力潜水艦に使用するウランの濃縮率は7~8%と極めて低く、民間で使用される発電用原子炉と同等の濃縮率とされており、燃料交換を退役までに数回行う必要があるため(フランス初の攻撃原潜である『リュビ』級は燃料の交換時期が7年と言われる)運用上は不便であるが、軍用に特別な生産ラインを設ける必要がなくなるという利点があると言われる。

 フランスは戦後、民間利用と軍事利用を一体とする形でCEAが中心となって原子力研究を長く行ってきた。核弾頭用と発電用のプルトニウムは同じ工場で抽出され、CEAの研究員は民間用原子炉の研究をする一方で核兵器の開発に関わることもある。1973年のオイルショックで自国の対外エネルギー依存の深刻さ(当時のフランスのエネルギー自給率は24%)を痛感したフランスは、エネルギーを海外に依存しない体制を構築するべく、毎年5基から6基の原発を25年間新設するという正気の沙汰とは思えない原発建設計画(メスメール計画)を打ち出し、CEAEDFは共同してこのプロジェクトにあたった。オイルショックに伴う財政危機によって計画は大幅に縮小され、現在保有している原発は57基と計画と比べると少ないが、フランスは国内電力の七割近くを原子力が占める原発大国となっている。アメリカからの援助があったとはいえ、一から研究に取り組んできたと自負するフランスにとって原子力技術は現在に至るまで「自立」の一端を担う非常に重要な存在であり、低濃縮ウランを用いる原潜も、原子力技術の維持と活用の一貫と思われる。

 

11-8. 「自立したフランス」の実態

 ここまでフランス独自の核戦力を例に何度も「フランスの自立」を述べてきたがその実態はどのようなものだろうか。実際のところ、「独自の核戦力を構築し、比例的抑止論を展開したフランス」の「自立」というのは、あくまでも相対的な、限られたものに過ぎない。フランスの核戦略(と核戦力)は前述した通り実質的なものではなく、どちらかといえば政治的、表象的な面が強かった。核の三本柱がなんとか確立された1970年代以降はともかく、それ以前のフランスの核戦力に対する評価は内外ともに低かった。ドゴールが西ドイツのエアハルト首相に対して、フランスの核の傘を提供する旨の提案をしたとき、元々親米派だったとはいえ同首相がアメリカの核戦力支持を示したことにそれは明らかである。フランス初の原子力弾道ミサイル潜水艦の『ル・ルドゥタブル』が1971年に竣工して哨戒を開始したとき、アメリカはすでに同種艦を40隻近く保有していた。そんな中、フランスが「独自の核戦力」と称してたった1隻の原子力弾道ミサイル潜水艦を誇示し、「比例的抑止論」という、負けを承知の喧嘩戦法を展開して「フランス本土の聖域化」と「自立」を唱えるのは、大言壮語と言われても否定できないだろう。

 だが、第三共和制や第四共和制が「自立」の精神を失い(あるいは放棄し)、英米に依存して結果的に崩壊したことが脳裏に深く焼き付いていたドゴールにとって、たとえ相対的な限られたものであったとしても、フランスの「自立」は絶対に手に入れなければならないものであった。ドゴールはフランスの「偉大さ」を何度も口にしていたが、フランスがもはや大国ではないことは彼自身が一番よく分かっていた。だが、自らが大国ではないからといって、大国としての言動や行動、そしてそれを可能とするための努力を怠ってしまえば、フランスは真の意味で大国でも中級国家でも何でもない存在に堕ちてしまう。「確固たる意志と、強い理性を持つ十分に信頼できる軍事力(=独自の核戦力)を有し、それを最終的な担保として、米ソ超大国の間でも一定の自由を確保した外交が可能なフランス」を、ドゴールは同盟国や敵性国含めた世界各国に印象付けることに苦心した。そしてそのためには、「確固たる意志と、強い理性を持つ十分に信頼できる軍事力」であるフランスの核兵器は、フランスが実際に開発し、製造し、配備し、そして運用するものでなければならなかった。フランス自らの手によって建造した原子力弾道ミサイル潜水艦は、どんなに数が少なくあろうと、フランスの領土と国民を守る「信頼できる軍事力」であり、またフランスの「自立」を守護する絶対的な存在なのである。前回述べたとおり、ドゴールのあとを継いだポンピドゥー、ジスカール・デスタン、ミッテランの3人は「抑止」だけでなく、「介入」と「防衛」も重視する姿勢を見せていたものの、財政危機等で苦しい状況にある中では「抑止」がやはり最優先とならざるを得なかった。フランスの「自立」を、仮想敵国のソ連だけでなく同盟国(アメリカや西ドイツ)から守るための存在となる、原子力弾道ミサイル潜水艦の維持と増強は、ドゴール以後の歴代大統領にとって最重要の課題だったのである。

 自立外交を掲げるフランス政府の対外姿勢は、国内の組織や企業、国民からは頼もしく思われると同時に、時折不満を感じずにはいられないものだった。それは、ドゴールによって「抑止、介入、防衛」という一貫した任務を与えられ、国防組織の中でも特に重要な位置を占めることになったフランス海軍も例外ではない。前述したとおり、フランス海軍は1971年に初の(戦略)原潜となる『ル・ルドゥタブル』をようやく取得することができたが、原潜建造が思うように進まなかったのはドゴールのアメリカに対する挑戦的な態度と無関係ではない。戦後、フランスと同じく核開発を進めていたイギリスは、アメリカから技術協力を得て1963年に同国初の原潜となる『ドレッドノート』を竣工させていた。『ドレッドノート』はアメリカから入手した原子力機関を、イギリスが設計した船体に搭載するという現実的な方針で建造されており、同艦の竣工によってイギリスはアメリカ、ソ連に次ぐ3番目の原潜保有国となっていたのである。加えて、同年締結されたナッソー協定によって、イギリスはアメリカから多額の開発費用がかかるSLBMを取得することが可能となっており、1967年にはアメリカ製のポラリスSLBMを搭載する『レゾリューションResolution』級原子力弾道ミサイル潜水艦を竣工させていた(1969年までに同型艦3隻が竣工)。フランスも、アメリカからナッソー協定と同様の提案をされていたがドゴールはこれを拒絶していた。ナッソー協定締結の知らせを受けた時に「これでイギリスはアメリカに従属することになった」と語ったと言われるドゴールは、核兵器のような重大な兵器の開発を、他国に依存しなければならなくなる状況を最も強く懸念していたのである。フランスは核兵器開発の遅れを取り戻すためにも、国防予算の2割から3割を常に核兵器の製造、関連設備の新設などにあてていた。ドゴールは自国の科学者を信頼しており、時間を要してもフランスが将来的に原子力潜水艦SLBM保有することを確信していたからこそアメリカからの核ミサイル提供を拒絶したわけだが、フランス海軍としては可能な限り早く原子力潜水艦を手に入れたいというのが本音だったであろう。イギリスのようにアメリカに核開発を依存すれば、「フランス独自の核開発」にかける予算を減らして浮いた予算をミサイル駆逐艦揚陸艦などの通常戦力に投入することができ、「介入」と「防衛」としての役割も十分に果たすことが出来るのである。日本の海上保安庁アメリカの沿岸警備隊のような組織を持たないフランスは、海洋資源保護のために海軍艦艇をインド洋や南太平洋に派遣する必要があったが、核実験をフランス領ポリネシアで実施するようになってからは先の海洋警備に加えて、核実験の指揮や周辺監視のために揚陸艦なども派遣されるようになった。最も多い時には全戦力の四割とも言われる艦艇を南太平洋へフランスは派遣しており、これは「NATOの予備役」として、有事にはNATOと共に共同作戦を実施しなければならないフランス海軍として実に悩ましい問題だった。フランス海軍は、政府から「フランス独自の核戦力」、そしてその中で最も重要な「抑止」を担うという存在意義を与えられていたのだから尚更である。

 こうした政府の姿勢は航空母艦に搭載する艦上機にも影響を及ぼしている。フランス海軍が運用していた『クレマンソー』級空母は前回紹介したように攻撃機と哨戒機の運用が中心であり、艦隊防空はそれほど重視されていなかった。だが、ソ連爆撃機や対艦ミサイルの性能向上が確認されるとフランス海軍も艦隊防空能力を強化する必要に迫られ、アメリカのF8Uクルセイダーが最適なものとしてその導入を強く希望していた。『クレマンソー』級はアメリカやイギリスの空母に比べるとサイズが小さく、搭載機数も40機ほどであったから、豊富な運用実績を持つ小型のF8Uクルセイダーを導入するというのは非常に理にかなっている。しかしフランス政府の見解は異なっており、フランス海軍に対して国産のミラージュ戦闘機の艦上機型を運用することを求めたのであった。「フランスの造船所で建造され、フランス製の主機、レーダー、火砲を搭載し、フランス製の艦上機を運用する、第一次世界大戦時の英雄である首相と将軍の名を冠した航空母艦。まさにフランスの自立を象徴する存在だ」と言うわけだが、フランス海軍からすればそんなことは知ったことではない。その偉大なフランス製の艦上機を空母から発進させるために必要なカタパルトがイギリス製であることをどう説明すると言うのだろうか。長い論争の末、結果的に艦上戦闘機としてはF8Uクルセイダーを導入することが決定したが、その後も度々政府と海軍は艦上機を巡って論争を起こしている。第五共和制という主は、今までの政体に比べると遥かに頼りになる存在ではあったが、少しばかり頑固で我儘なところが問題であった。

 

11-9. 「抑止」─現在のフランス核戦力の在り方─

 長らく「対都市打撃」を中心とする比例的抑止論を展開してきたフランスであったが、冷戦が終結すると核戦力の在り方の再考を促されることになる。1994年の国防白書では、他国によるフランスの国土と権益を脅かすような攻撃への抑止、という核戦力の在り方がソ連の解体によって薄れたこと、それでもフランスの「自立」を担保するために核戦力は必要であり続けることが述べられている。冷戦間、フランスはアフリカ諸国に数十回以上の軍事介入を実施してきたが、軍隊を派遣する地域は、自国の核抑止力が機能する範囲内と定めていた。これは核兵器の存在によって対象地域からの反撃のリスクを軽減し、自国軍隊の安全を保障した上で介入を行うということであり、ドゴールの「『抑止』が確立されていれば、『介入』と『防衛』の自由は保障される」という考えはあながち間違っていなかったと言える。

 1995年、フランスは欧州統合が順調に進んでいることを背景に、防衛政策の一案としてフランス(とイギリス)の核兵器をヨーロッパで共有することを提案した。核の傘を「聖域」だけではなく欧州全土にまで広げ、ヨーロッパ全体の防衛に寄与させるというものだ。もちろん核の傘を差しているのはフランス(とイギリス)である。しかし、このフランスの発案に興味を示したのは同じ核保有国であるイギリスのみで、その他の国々は国内の核兵器への反発、アメリカとの関係への懸念、核兵器保有するフランスの覇権的振る舞いを警戒し、結局受け入れられることはなかった。前述したように同年、核兵器実験をフランスが再開して世界中から批難されていたこともあって、それから目を逸らす発案ではないかと思われたのも拒否された原因の一つだろう。だがその後も、フランスの核抑止力をヨーロッパ全体の防衛に寄与させるというフランスの考えが変わることはなく、2001年にはシラク大統領が「ヨーロッパへの大量破壊兵器の脅威はフランスの核抑止の対象となる」との認識を示している。

 一方、シラクは同じ2001年に、地域大国大量破壊兵器による威嚇をフランスに対して行った場合、従来の大量報復による「対都市打撃」ではなく、軍司令部や航空基地といった中枢施設を攻撃する選択肢を自国が持つことを公表した。さらに2006年、シラクはドゴール時代から続く核抑止体制を強調すると同時に、対象国の中枢施設攻撃のための能力をフランスが持つ必要性を述べた。この間、航空機に搭載されるASMP空中発射型巡航ミサイルは射程延長などの改良が施され、2009年には改良型のASMP-Aが導入されている。シラクが示した新たな核戦略はフランス国内で大きな論争を引き起こしたが、その中で生まれてきた概念が「抑止対抗(脅迫対抗)」であった。これは、フランスの軍事介入に対して、地域大国がその防止のために大量破壊兵器による威嚇をしてきた場合には、フランスが対象国の権力中枢を破壊可能な戦力を有していることを示し、また、核保有国が弾道ミサイルによって脅迫を行ってきた場合には自国のSLBMによってその効果を相殺し、対象への軍事介入を可能とする考えである。ロシア、中国、パキスタン、イラン、北朝鮮といった権威主義的な現状変更国では人命が軽視されており、比例的抑止論の根幹となる対都市攻撃(による甚大な人的被害)が、相手の政府首脳側にとって受け入れがたい損害とは認識されないと考えるようになっていた。フランスは現在、現状変更国による国際社会への挑戦を前にして、本土だけでなく、資源供給ルートを保護し、自国の「行動の自由」を確保できるよう「抑止対抗(脅迫対抗)」の概念を新たに導入するに至っている。

 フランスの核戦力は現在、原子力弾道ミサイル潜水艦と空中発射型巡航ミサイルによって構成されているが、フランソワ・オランド大統領のもと、2013年の国防白書策定作業が進められていたときには、折からの核軍備削減運動や財政負担軽減を理由に、後者の空中発射型巡航ミサイルを廃棄してはどうかという提案がされている。フランスと同じ中級核保有国であるイギリスが、『ヴァンガードVanguard』級原子力弾道ミサイル潜水艦のみで核抑止体制を構築していること、アロンの主張ではないが、巡航ミサイルやそれを搭載する航空機は敵からの攻撃に対して脆弱であることなどがその理由であったが、結果的には存続が決定された。「抑止対抗(脅迫対抗)」を考える上で、可視性が高い航空機は敵側への「最終警告」に適していること、敵側の弾道ミサイル防衛システムに対して低空を超音速で飛翔可能な巡航ミサイルは迎撃されにくく、その命中精度が高いことが主な理由であった。そして、アメリカやイギリスが使用するSLBMのトライデントⅡに対し、フランスが運用しているM45やM51といったSLBMの精度が低いこともその存続を後押しした。前者の平均誤差半径(CEP)が90mであるのに対し、フランスは最新型のM51シリーズでも150~200mと、弾頭精度に大きな差があった。フランスが現在も、原子力弾道ミサイル潜水艦から発射されるSLBMと、航空機に搭載される(核弾頭)空中発射型巡航ミサイルを核戦力として運用し続けているのはこのためである。今後、仮にフランス製SLBMの精度がアメリカ(やイギリス)と同等のレベルになるか、或いは近年各国で研究されている極超音速兵器が実用化されたとしても、前述した戦略概念をフランスが導入し、また遠方地域まで展開可能な航空母艦の存在を考慮すれば、空中発射型巡航ミサイルが廃棄されることは当分ないだろう。

 フランスは現在も、核兵器が自国を守る唯一の方法と考えており、その点では冷戦期から大きく変化はしていない。世界規模での安全保障に責任を持つ、国連安保理常任理事国のフランスが、今後もその地位を維持して積極的な役割を果たそうとするために核兵器保有し続けることは間違いなく、その戦力には引き続き注目していく必要があるだろう。ドゴールと、そしてその後の大統領が踏襲した対米自立外交は第五共和制の基本的な外交スタイルとなるが、それを可能とする最終的な担保は「フランス独自の核戦力」であり、その中心にあるのは原子力弾道ミサイル潜水艦を保有し、共和国の全てを防衛する「抑止」を担うフランス海軍であった。頑固すぎる主人に時折悩まされながらも、その重要な地位を与えられたフランス海軍は冷戦期を通して「抑止」を第一義に活動を続けることになった。しかし、冷戦の終結が与えた影響は、上述したフランスの核戦力(と核戦略)だけに留まらなかった。冷戦の終結によって、国際的な安全保障環境は大きく変わり、フランスが対処するのはソ連のような軍事大国ではなく、バルカン半島や中東諸国での紛争や、地域大国の国際社会への挑戦、そしてテロ活動といったものに変化しつつあった。フランス海軍は「抑止」を維持し続ける傍らで、「介入、防衛」の再考に取り組まなければならなくなったのである。

 

次回(最終回)は「現代のフランス海軍」です。

 

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