共和国の海軍─ジューヌ・エコールとはなんだったのか─ (1)

・はじめに

 ジューヌ・エコール(Jeune ecole)、いわゆる「新学派」(「青年学派」とされることも多いが、本ブログではこの訳を用いる)は海軍や軍艦に興味のある人なら一度は目にしたことがある単語だろう。新学派とは、19世紀末のフランス海軍内に生まれた派閥で、圧倒的に優勢なイギリス海軍に対して同等の数の戦艦を整備するのは無駄であり、新兵器の機雷や水雷艇による沿岸防衛、そして巡洋艦による通商破壊を実施して同海軍に対抗しようという戦略を提唱したことで有名である。しかし、アメリカのアルフレッド・マハン提督の「海上権力史論」に影響を受け、艦隊決戦のための戦艦建造に注力したイギリス、ドイツ、アメリカ、日本に対し、フランスが弩級戦艦超弩級戦艦の建造で遅れを取る原因になったとして批判されることも多い。また、ある一国の海軍が、沿岸防衛にリソースを多く割いているという意味で「新学派」の言葉を使う人も散見される。

 「新学派」という言葉の概要だけなら上記の説明でもおそらく十分ではある。しかし、これはあくまでも軍事的な視点に拠ったものだ。軍事独裁政権でもないフランス共和国(第三共和制)の中にあるフランス海軍の戦略を、単に艦艇の性能や隻数、そして艦艇整備の傾向だけで評価するのは果たして適切であろうか。当然だが海軍というものは、主権国家が持つ正当な内外への暴力手段である軍事力の一部を担う組織として、政府の下に置かれている。政府は各省庁の要望をまとめた(もちろん艦艇を建造するための予算も含まれている)予算案を議会に提出し、議会はそれを審議にかけて採択の可否を下す。そうした手続きがある以上、独仏戦争終結から第一次世界大戦までに成立した各内閣の内政・外交や、議会における予算審議の方法についても触れなければならないだろう。また、議会で審議を行う予算の源である税金、歴史的に貧弱なフランス経済、そして「経済的利益を目的」として実行された(とされる)植民地事業についても目を向けなければならないと私は考える。ある人物が何か行動を起こそうとしたときに、その動機は必ずしも一つではない。それと同様に、「フランス海軍内で『新学派』という派閥が誕生し、彼らの主張に沿った艦艇がただひたすらに建造されてしまうという非合理的な行為のために、フランス海軍は第一次世界大戦勃発時に目も当てられない惨状となっていた」という説明だけでは、その事実を真に理解するにはおそらく不十分なのだ。

 私は過去に「フランス海軍通史」という記事を12回に渡って投稿したが、この通史という体系は、言ってみれば大空を飛ぶ鳥から大地を眺め、どこに山や川、道があるのかを大まかに把握しただけに過ぎない。俯瞰では、山々にどのような木々が生え、川がどれぐらい深く、どのような魚が住んでいるのか、その水は透き通っているのか、道は綺麗に舗装されたものなのか泥濘に覆われたものかが分からない。何の障害物もない空を飛びながらフランス海軍という大地を観察するのも気持ちの良いものではあるが、時には地上を歩き回る人間の立場になって、自分の体力が続く限りその細部を観察するのも趣味者にとってまた一興である。

 長々と話してしまったが、今回の記事は上述した「新学派」の誕生から衰退までの経緯を、第三共和制という枠組みとその外部に位置する海外植民地、そして本土と海外植民地を防衛する役割を担うフランス海軍、そして彼らと敵対する関係であったイギリス海軍といった幾つかの視点から、私なりに分析しようという試みである。このような探検は不慣れで稚拙な語りとなってしまうが、最後までお付き合いして頂ければ幸いである。

 

 

第1章:第三共和制とは

1-1. 「祝福なく生まれた子」第三共和制

 1870年9月、プロイセンを中心としたドイツ諸邦との戦いに敗れたフランス第二帝政は脆くも崩壊した。フランス皇帝ことナポレオン3世が前線で捕虜になるという屈辱と大混乱の中、9月4日に成立した臨時政府は共和政を宣言する。1871年2月末には、50億フランの賠償金とアルザス、ロレーヌ地方の大部分をドイツに譲渡するという条件を受け入れて仮講和を結ぶに至った。その後、パリ・コミューンの鎮圧などを経て5月に正式な講和条約を結ぶ形でフランスはようやく終戦を迎えたが、共和政が宣言されたとはいえその内実は不明瞭なままであった。

 仮講和を結んだときの行政長官アドルフ・ティエールは、オルレアニスト、レジティミストといった様々な君主制支持者(王党派)が大多数を占める国民議会からその職務を委任されていた。レオン・ガンベッタなどの共和主義者(共和派)はあくまで徹底抗戦を主張することしかできず、早期の戦争終結を訴える王党派が圧倒的な支持を得て議席を獲得していたのである。王党派は帝政崩壊に乗じて王政の復活を目指していたが、候補者を中々決定することができず、暫定的に共和政をとることを選んだ。共和国大統領の称号と、議会制における首相と同等の権限の二つを与えられたティエールは国内の秩序回復と財政再建に取り組み、フランスは予定より18ヶ月早くドイツに対する賠償金支払を完了させている。

 オルレアニスト出身の政治家であるティエールは、仮に王政の復活が実現された時にはそれを否定しないとしていたが、パリ・コミューンに対する政府の断固とした態度や、ガンベッタなど共和派の宣伝活動などによって、次第に共和派は農民やブルジョワの支持を集めていった。1872年末、ティエールは共和政に賛成する立場を明らかにし、これを裏切りと捉えた王党派は1873年5月にティエールへ退任を強制する。後任として、パリ・コミューンを鎮圧したレジティミストのド・マクマオン元帥が共和国大統領となり、オルレアニストのアルベール・ド・ブロイ公が首相となった。王党派の大統領と首相は、「オルドル・モラル(道徳秩序)」と呼ばれる伝統的な道徳価値の実現を掲げて内政に取り組み王政復古を画策していたが、その最大の障害は王党派内部の分裂であった。白旗(ブルボン朝の旗)が示す王朝の特権を主張するレジティミストに対し、オルレアニストはフランス革命後に使用されていた三色旗が示す国民主権の理念を受け入れていたのである。幾度かの話し合いの末、ブルボン朝最後の王であるシャルル10世の孫、シャンボール伯爵がアンリ5世として即位することになった。政府と議会はアンリ5世を受け入れる用意をしていたが、彼は三色旗ではなく白旗を用いることに固執した。旧体制(絶対王政)への復帰を図るような白旗の採用が、いまさら国民に受け入れられるわけがない。王党派は再度混乱に陥り、ブロイ公の提案でひとまずマクマオン大統領の任期を延長することになったが、この一件でオルレアニストは次第に共和派の方に接近していった。オルレアニストは、彼らが望む立憲君主制の代替として、それに近い共和政を作り上げることに期待を寄せるようになっていたのである。また、野党である共和派は、ボナパルティストの台頭に危機感を持っており、彼らが新たな帝政を復活させる前に政治体制を確立させるのが急務と考えるようになっていた。レジティミストはこうした動きを快く思っていなかったが、1873年11月には法律によって30人からなる委員会が設立され、憲法草案作成の作業が始まった。

 1875年1月、国民議会は353票対352票という僅差で委員会の提出した憲法草案(ヴァロン修正案)を採択し、ついに共和政が確立されることになった。国民議会はその後、この共和政の原則を定めた三つの法律、すなわち「公権力の組織に関する法律」「上院の組織に関する法律」「公権力の関係に関する法律」を2月から5月にかけて制定している。この計34条の法律を総称したものが「第三共和制憲法」であり、フランス革命から数えて3つ目となる共和国、第三共和制が産声をあげたのである。

 

1-2.王政復古の挫折と共和国の勝利

 第三共和制憲法では、上院(元老院)および下院(代議院)によって任期7年の共和国大統領が選出されることになっていた。大統領は元老院の同意のもとで代議院を解散させることができ、また法案の提出権を独自に有している。大統領は大臣を指名し、その補佐を受けながら行政権を行使することになっていた。大統領の行為については、必ず一人の大臣が連署することになっており、「大臣は政府の全般的政策について連帯して責任を負う」ため、大統領は基本的に無答責であった。元老院県議会議員などの投票者団体による間接選挙で選出されることになっており、フランスの農村部や地方の有力者などを代表する存在となるものであった。強い権限を持つ大統領と、共和国の中で保守的な精神を保つ元老院は、王政復活を願うオルレアニストが強く希望していたものである。一方、下院の代議院は選挙権を持つ男性の直接選挙によって選出された代議士によって構成されている。元老院と代議院をあわせたものが国民議会とされ、大統領が指名する大臣は両院からの支持を得る必要があった。第三共和制憲法は曖昧な点が多かったが、大統領と議会の双方からの信任を得た内閣が国政を担う体制を目指していたものと考えられる。妥協したとは言っても、王党派はいまだに王政の復活を諦めたわけではなかった。

 1876年1月に行われた下院選挙では、共和派が圧勝する結果(553議席中340議席)となり、マクマオン大統領はやむなく共和派のアルマン・デュフォールを、ついでジュール・シモンを首相に任命することになった。しかし1877年5月、王政復古の夢を捨てていなかったマクマオンは、議会の信任を得ていたジュール・シモンを更迭し、オルレアニストのブロイ公を後任に据える。この暴挙に対して、代議院が即座に新内閣を拒絶すると、マクマオンは王党派が支配していた元老院の同意を得て代議院を解散し、再選挙を求めた。大統領の強力な権限をさっそく行使したマクマオンであったが、再度行われた選挙でも共和派が圧勝し、再びデュフォールを首相に任命することになってしまう。憲法で認められていた、共和国大統領のみが持つ下院解散権がこのような結果となってしまったことから、その後の大統領は進んでその権利を行使することはなくなった。1879年には上院選挙でも共和派が勝利し、全ての気力を喪失したマクマオンは大統領を辞任した。両院はマクマオンの後任として、共和派の大物であるジュール・グレヴィを指名し、大統領と議会の双方を共和派が占めることになった。王政復活はついに叶わず、共和国が勝利を収めたのであった。

 

1-3.日和見主義者の共和国

 一つの集団に対して勝利を収めたもう一つの集団で、その後起こることは何であろうか。それは分裂である。王党派に対して勝利を収めた共和派は穏健派と急進派の二つに分裂していった。穏健派は、国内を不安定にさせるような急激な改革は実行せず、時宜を見計らってその都度改革を取り入れ、秩序維持と経済発展を希望していた市民を満足させようとしていた。一方、穏健派のやり方は消極的すぎると批判していた急進派は、反教権主義を強く押し出し、議会制民主主義の徹底、所得税の導入や格差是正などの社会改革を強く求めていた。

 1880年代前半、政権の舵取りを担っていたのは急進派に対してわずかに優位を保っていた穏健派であった。急進派は穏健派を「オポルチュニスト(日和見主義者)」と呼んで批判していたが、穏健派は自分たちが「適切な時期に改革を行える日和見主義者」であると自負しており、実際、数多くの批判に晒されながらも改革を都度実行していった。王政復古を夢幻とすることに成功していた共和派であったが、王政と密接な関係にあったカトリック教会の国内への影響は残ったままであった。国家と宗教を分離する世俗主義の精神を持ち、科学的知見を備え、自分自身で考えることが出来る子供、もっと言えば「共和国市民」を作ることが必要だと共和派は考えていた。穏健派の主要人物であり、教育大臣や首相を務めたジュール・フェリーは初等教育の無償化、義務化を制定して小学校を設立するなど、若者への教育機会をカトリック教会から奪うことに全力を尽くしている。フランスの義務教育は共和国市民を作るために始まったと言って良いだろう。

 穏健派は集会の自由、出版報道の自由、組合結成の自由を続けざまに認めた。1848年から続く男子普通選挙が定着していたこともあわせると、フランス市民が持つ権利(政治的自由)は現代のそれと匹敵するほどの大きなものとなった。また、穏健派と穏健派支持層の基盤は、資本家や鉄鋼業経営者などの実業界であり、いわゆるエリート層で占められていたが、1873年以降続いていた供給過剰に端を発する「大不況」の中で、「フレシネ・プラン」と呼ばれる大規模な公共事業を実施し、また農民層の支持に応えるべく保護貿易政策を取り入れるなど、経済については慎重な姿勢を取っている。穏健派の政策を「日和見主義」と批判していた急進派であったが、上記のような世俗主義の浸透や政治制度改革などについては概ね支持していたことは重要であろう。

 

1-4. 共和国の危機─ブーランジェ事件とドレフュス事件

 急進派からの圧力を受けながらも議会主義体制を維持して政権運営にあたっていた穏健派であったが、1880年代後半には反議会主義的な大衆運動の昂揚によって危機に立たされることになった。いわゆるブーランジェ事件である。急進派のジョルジュ・クレマンソーの支援を受けて陸軍大臣となったジョルジュ・ブーランジェ将軍は、ストライキを起こした炭鉱労働者の立場を擁護し、ついで軍隊から王族や貴族出身の人物を追放、兵舎環境の改善などを行うことで労働者や市民からの支持を得た。ドイツとの間に起きた国境紛争では、本格的な戦争になることを恐れる穏健派の外交が弱腰だと批判される一方で、ブーランジェはドイツに対する強硬姿勢を貫き通したことで民衆から「復讐将軍」と持て囃されるようになったのである。穏健派は、ブーランジェが共和国にとって危険な存在となると考え、彼を陸軍大臣から地方の軍司令官へと更迭したが、これは穏健派に対する民衆からの大規模な抗議運動を巻き起こすことになった。

 穏健派を以前から批判していた急進派だけでなく、王党派や彼の軍人、政治家としての魅力に帝政復活を期待するボナパルティスト、そして労働者や市民が一体となってブーランジェを反穏健派のシンボルとして担ぎ上げた。ブーランジェ自身も議会解散と新憲法制定を掲げ、各地の補欠選挙に当選しては辞退することを繰り返して得票数を伸ばしていき、ついにはフランス革命100周年にあたる1889年、パリの補欠選挙で共和派の統一候補に圧勝する。彼の支持者は熱狂し、ブーランジェに宮殿への進撃を迫ったが、数ヶ月後に行われる下院選挙での合法的な勝利にこだわったブーランジェは行動を起こそうとしなかった。このブーランジェの期待外れの行動に支持者の熱は急激に冷めてしまい、また穏健派が急進派を内閣に引き入れる形で反撃に出たために大衆運動は鎮静化、刑を宣告されることを恐れたブーランジェはベルギーに亡命した。ブーランジェがいない中で行われた裁判で彼は国外追放が決定され、復権どころか祖国に戻ることもできなくなったブーランジェは愛人の墓前でピストル自殺してその生涯を終えている。反議会主義を掲げるブーランジェ運動によって、対立していた穏健派と急進派が結束したのは皮肉であった。

 続いて共和国を襲ったのは宗教問題であった。長くカトリック教会との争いを続けていた共和派であったが、1890年代に入ってローマ教皇レオ13世が「レールム・ノヴァールム」と呼ばれる回勅でフランスのカトリック教会に対して共和政への適応を呼びかけ、「ラリマン(加担政策)」が取られたこともあって、両者の対立は次第に穏やかなものになっていった。しかし、それはほんの少ししか長続きしなかった。ドレフュス事件という、フランス社会を混乱に陥れる事件がまたもや発生し、「一にして不可分な共和国」は二分されることになったのである。

 1894年、アルフレッド・ドレフュス陸軍大尉はドイツ側に機密情報を流した罪に問われ、軍籍剥奪とフランス領ギアナへの流刑という判決を受けていた。彼がドイツに奪われたアルザス出身のユダヤ人であること、アルザスや東欧からのユダヤ人移民が増加し、大不況の影響もあって反ユダヤ主義的な世論が広まっていたこと、そして独仏戦争以後、国内に蔓延していた対独報復主義的思想が影響していたことは明確であった。ドレフュスの友人たちだけでなく、急進派のクレマンソー、社会主義者のジョレス、作家プルーストなど多くの政治家や知識人がドレフュス裁判の再審を求めた。一方、国家と軍の名誉を重んじる政府や軍部は再審を拒否し、これに王党派、ナショナリスト、人種主義団体などが加わって反ドレフュス派を形成するようになっていた。後者についてはカトリック教会も加担していたのは疑いようがなかった。証拠捏造などが早々に明らかになったこともあってドレフュス派の方が優位にあったが、反ドレフュス派によるクーデタ未遂やドレフュス派のエミール・ルーベ大統領に対する殴打事件が起きるなど、一時は議会制民主主義体制の崩壊かというような事態も起きている。1899年に行われた再審で、有罪判決は取り下げられなかったが懲役10年に減刑され、ヴァルデック・ルソー内閣による特赦が認められるという結果になった。一部の知識人はこの解決方法に憤りを隠さなかったが世論はひとまず鎮静化した。最終的にドレフュスに無罪判決が下され、軍籍を回復したのは7年後の1906年であった。

 ドレフュス事件はブーランジェ事件のときと同じく、フランスの政界に変化を促すものとなった。それまでフランスには政党と呼べるようなものがなく、「議員グループ」が多数あるような状態であったが、王党派、ナショナリスト軍国主義者、カトリック教会といった右翼団体に対抗し、議会制民主主義を防衛するため、ばらばらとなっていた共和派諸派が結集して1901年、フランス初の政党である「急進共和党」が結成されたのである。フランス革命の伝統を受け継ぎ、全てのフランス人の政治的自由と平等、教育の機会均等の実現、世俗主義の精神を持つ市民による共和国の確立を彼らは求めた。以後、大きな政治的自由を手にした国民の支持を集めようと、社会党など他政党の結成が促進された。ただし、ドイツやイギリスと比べるとフランスの政党は組織として未熟であり、二大政党制のような体制が取れるほどの大政党は生まれず、少数政党の乱立が相次いでいる。

 1902年の選挙で勝利して政治の実権を握った急進共和党は、教会の強制閉鎖を実行するなどカトリック教会への攻撃を開始し、1905年には国家と宗教の分離を確固たるものにする政教分離法を成立させている。これによって信仰は私的領域のみに限られ、国家や地方公共団体の宗教予算は廃止、聖職者の政治活動も禁止されることになった。フランス革命からの悲願であった国民統合は、「共和国」を新たな宗教として、ついに実現されることになったのである。

 

1-5. 第一次世界大戦までにいたるフランス外交

 独仏戦争の敗北後、フランスは国際社会における存在感を発揮することができずにいた。新たに誕生したドイツ帝国ビスマルク宰相は、大陸におけるドイツの覇権に対して何らかの同盟が構築されることを警戒し、その中心となるかもしれないフランスが孤立するよう他の欧州諸国に働きかけていたのである。1880年代以降、穏健派が植民地政策を推し進めたのは、ドイツとの衝突を避けつつ、独仏戦争後に低下した国際的威信を取り戻すためにあったが、これはイギリスやイタリアの顰蹙を買い、ビスマルクにとって願ったり叶ったりであった。この状況に変化が訪れるのは、新たにドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世との確執でビスマルクが宰相の座を退いたことから始まる。フランスはまず、ドイツの束縛から解放され、アジアでイギリスや日本と対立していたロシアに接近し、1894年には独墺伊三国同盟に対抗する形で露仏同盟を結成する。ロシア国内に投下された大量のフランス資本によって、ロシアの鉄道や産業設備の更新が図られるなど、その協力は政治、軍事面だけでなく経済面にも及んだ。

 ドイツに対する逆包囲網を目論むフランスが次に接近したのはイギリスであった。露仏同盟とフランスの植民地政策によって英仏関係は悪化していたが、1898年のファショダ事件でフランスがイギリスに譲歩してからは改善に向かうようになる。テオフィル・デルカッセ外相は国内でドレフュス事件の混乱がいまだ収まっていないこと、イギリスと戦争するのにフランスの海軍力があまりにも劣勢であることからこの事件でイギリスに譲歩せざるを得なかったのだが、これを梃子にして英仏関係の改善を図った。1904年には英仏協商が締結されたことで植民地を巡る対立は解消している。この協商関係は同盟ではないものの、その後両国は秘密裏に交渉を重ねることになった。

 デルカッセはイタリアとの関係改善にも取り組んだ。イタリアはドイツ、オーストリアハンガリー三国同盟を結んでいたが、ドイツはイタリアを格下と見なして常に冷淡な態度で接し、またオーストリアハンガリーとは領土問題で対立していた。イタリアが三国同盟に加わったのはフランスの植民地政策(チュニジア保護国化)に対抗してのことだったが、1900年には同国のリビア進出を認める代わりにフランスのモロッコ政策の承認を確約させることに成功している。イタリアは1902年に三国同盟を更新したが、この同盟がフランスに不利となることはないとの通達を行った。

 1905年、日露戦争でロシアが日本に敗北し、国内が混乱に陥っていることをドイツは好機と捉えた。反仏運動が盛んなモロッコのタンジールに上陸したヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国はモロッコの独立を支持する旨の演説を行った上でモロッコ問題を討議する国際会議の開催を呼びかけた。いわゆるタンジール事件である。スペインのアルヘシラスで開かれたこの国際会議では、ドイツ側の期待に反してイギリス、ロシア、イタリアがフランスを支持したことでモロッコにおけるフランスの権益が認められることになった。加えて、このアルヘシラス会議では英仏関係が強化されただけでなく、ドイツの脅威が再認識されたことでイギリスとロシアの接近も促され、両国は1907年に英露協商を締結している。これによって、露仏同盟、英仏協商、英露協商という三国体制が確立することになった。1911年、モロッコ保護国化を進めるフランスは、民衆蜂起の鎮圧と自国民の保護を理由にモロッコへ軍事介入を行い、首都フェズを占領する。このフランスの行動に対し、ドイツはモロッコのアガディールに自国の砲艦を派遣した(アガディール事件)。前回と同じく、イギリスがフランスを支持したこと、またドイツ側がモロッコの代わりにフランス領コンゴの一部を要求するという「現実的な」提案を行ったため、戦争勃発の危機は回避されている。フランスはコンゴの北部地域をドイツに譲渡した後、1912年にモロッコ保護国化を完了した。

 1914年6月28日、セルビア民族主義者がオーストリア王位継承者夫妻をサラエボで銃殺するという事件が起こった。当初はオーストリアハンガリーセルビア間の衝突で終わると考えられていたが、ドイツの支持を得たオーストリアハンガリーセルビアに宣戦布告すると、ロシアはセルビア支持を表明。8月初め、フランスとイギリスも同盟、通商関係を理由に参戦し、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争が始まってしまった。各国政府首脳の予想を裏切り4年間も続く未曾有の大戦争となった第一次世界大戦で、フランスはアメリカの参戦もあってドイツに辛勝したが、受けた被害は甚大なものであった。ここではその詳細については触れないが、第一次世界大戦が残した傷跡はフランスを平和主義へと向かわせ、結果的に第二次世界大戦でドイツに対して屈辱的な敗北を味わうことになる。

 第二帝政の崩壊後、数多くの妥協によって成立した第三共和制であったが、それまで何度も政体が変更されていたフランスに歪ながらも安定をもたらし、第二次世界大戦まで続く最長の政治体制となった。国内では多くの派閥が争い、時には共和政の崩壊が危惧されるほどの闘争を起こしたが、政治的自由が非常に大きくなった国民に良くも悪くも支えられる形で、フランスに議会制民主主義を定着させた。そして、フランス革命以来ずっと希求されてきた「一にして不可分な共和国」を構築することに第三共和制は成功したのである。

 

「平和とはなにか?平和とは、おそらく、人間に自ずからそなわっている闘争心が、戦争においては破壊によって表現されるのに対して、(愛と)創造によって表現されるような状態を言うのだろう」――ポール・ヴァレリー(フランスの小説家、詩人、哲学者。第三共和制期屈指の知識人とされる)

 

第2章:共和国の植民地─第三共和制の海洋進出─

 「共和国の植民地」。様々な矛盾を持つフランスであるが、これほどまでに強烈な矛盾は中々無いであろう。その実態はともかく、「共和国」という単語は「王国」や「帝国」に比べて、好印象を抱かれることが多い。「共和国」に対して、民主主義、普通選挙、自由、平等など我々には馴染み深い単語を思い浮かべる人もいることだろう。それに対し、「植民地」という単語に好印象を抱く人はおそらく皆無で、服従、強制労働、搾取、殺傷、拷問といった単語や、目を覆いたくなるような光景しか出てこないのではないだろうか。

 「共和国」と「植民地」、これら二つはどう考えても相反するものであるが、第三共和制のもとで拡張が進められた植民地は、やがてイギリスに次ぐ世界第二位の規模に達し、第五共和制が成立するまでの長きにわたって存続した。自由や平等を掲げ、人々に明るい未来を確約しようとしていた「共和国」が、海洋進出をした上で何故そのような行いをしたのかについては、研究者の方々の間で数多くの議論が現在も行われている。私がここでなにか新しい主張を行うことは無論できないが、本記事のテーマであるフランス海軍と、フランス植民地は切っても切れない関係にあるため、その植民地政策を概観したいと思う。

 さっそく第三共和制の植民地政策を見ていきたいが、その前にフランスが共和国ではないときに行われた植民地政策もとい海洋進出について振り返っておきたい。これらは一見無関係なものと思われるかもしれないが、「共和国の植民地」という複雑な図形の形状を把握する補助線として役立つと思われるので、少し遠回りとなるが時計の針を巻き戻すことにしよう。具体的には、大陸国家フランスが恐る恐る海洋へと船を漕ぎ出した13世紀から、フランス革命が起きる18世紀までの間である。

 

2-1. 出不精なフランスの海洋進出とフランス海軍の誕生

 フランスの歴史の中で最初に海へ関心を向けた指導者は、カペー朝のフィリップ4世(在位1285年~1314年)である。祖父であり、その人柄から「聖王」と評されたルイ9世を尊敬していたフィリップ4世であったが、祖父がイングランドとの平和的共存を図ったのとは対象的に、彼はイングランドとの対立を再燃させた。諸外国に勝利を収め、その治世下で王領地を四倍にまで広げてフランスを大国へ押し上げた、カペー朝屈指の名君とされるフィリップ2世(ルイ9世の祖父。在位1180年~1223年)の血を色濃く受け継いでいたのかもしれない。イングランドとの戦争のため、フィリップ4世はパリとセーヌ川河口の中間に位置するルーアンにクロ・デ・ガレと呼ばれるガレー船を建造するための施設を新設し、ここでは500隻以上の船が建造された。フランスとイングランドの漁師の小競り合いを発端とするイングランドエドワード1世との戦争では、クロ・デ・カレ生まれのフランス初の艦隊はイングランド沿岸部を攻撃している。そこからしばらくの間、クロ・デ・ガレの活動は衰退していたが、百年戦争の間にはシャルル5世(在位1364年~1380年)の指示の下、十字軍にも参加した経歴を持つ軍人ジャン・ド・ヴィエンヌによって設備の更新や組織の再編が行われた。最高司令官兼海軍大将となったヴィエンヌは、新設された艦隊を用いてイングランド南部の港を攻撃して補給路を寸断するとともに、フランス北部でイングランド駐留軍を包囲するなどして勝利を収めている。続いて大艦隊を率いてスコットランドにも上陸したヴィエンヌであったが、ここではスコットランドからの十分な支援を得られず敗退している。

 最終的に、ジャンヌ・ダルクの登場とシャルル7世(在位1422年~1461年)の反攻によって、イングランドが大陸から追い出される形で百年戦争終結するが、フランス艦隊はイングランド艦隊に勝利することがほとんどできなかった。強力な艦隊を保有すれば、イングランドからフランスへの援軍を阻止でき、またイングランドへフランスが上陸できることはフィリップ4世以降のフランス王も理解していたはずだが、大陸の中で地上戦と外交に注力しなければいけない状況下では、艦隊や港湾の新設といった長い時間を要する事業に取り組むことは困難であった。フィリップ4世は確かに海へ関心を向けたフランス最初の指導者であったが、それはあくまでも英仏海峡という巨大な橋をフランスが掌握するための手段としてであり、のちに欧州諸国が実施した海洋進出とは異なるものであった。残念なことに、百年戦争終結後、国内の安定が最大の重要事項となったこともあって、フランス王の海洋への関心は希薄なものとなっていった。

 15世紀以降、いわゆる大航海時代ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスといった欧州諸国が、アフリカやアメリカ、アジアなどへ進出を図る中、フランスは出遅れていた。前述した通り、フランス王は海洋への関心を失っていたため、遠洋航海事業は一部の貿易商人や漁師が行う限定的なものであった。そんな中、他国と同様の海洋進出をフランスも実施するべきだと唱えたのはヴァロワ朝のフランソワ1世(在位1515年~1547年)であった。フランソワ1世はセーヌ川河口にル・アーブル(フランス語で港の意)と呼ばれる港湾都市を建設し、スペインとポルトガルの間で1494年に結ばれたトルデシリャス条約による世界分割に異を唱えた。オーストリアとスペインを束ねるハプスブルク家と対立していたフランソワ1世は、戦争を継続する財力を確保するためにも豊かなインドとの交易を望んでおり、また、現地民をキリスト教へ改宗させるという栄光をフランスが手にしなければならないという使命感によって、海洋への関心を強く抱いていたのである。フランソワ1世は当時のローマ教皇クレメンス7世に対し、「太陽はすべての人に光り輝く。アダムの遺言書に世界分割から私を締め出すと書かれているのか」と抗議した。これに対してクレメンス7世は、スペインとポルトガルがまだ手にしていない土地については、トルデシリャス条約に含まれていないキリスト教国でも統治する権利があると返答している。すでに中南米にはスペインやポルトガルが進出しており、またフランス沿岸部に住む漁師によって北米大陸への航路がある程度把握できていたことから、フランソワ1世は港町サン・マロで生まれたジャック・カルティエ北米大陸の探検を命じた。カルティエは1534年から1542年にかけて北米大陸を探検し、フランスは初めて海外植民地を手に入れることになった。

 しかしその後、フランソワ1世はハプスブルク家と幾度も戦争を行い、また国内の宗教問題が大きくなってきたこともあってフランスの海洋進出は一旦中断される。フランスが再度、海洋進出に目を向ける余裕ができたのは、ブルボン朝初代のフランス王として即位したアンリ4世(在位1589年~1610年)の時代に入ってからである。アンリ4世の支援を受けたサミュエル・ド・シャンプランは北米大陸に向かい、1608年に植民地ケベックを建設している。海外の植民地は地道に拡張が進められていたが、アンリ4世が暗殺されたことでフランスは再び混乱に陥った。アンリ4世の息子であるルイ13世(在位1610年~1643年)と摂政マリー・ド・メディシス(アンリ4世の王妃)の争いや貴族の反乱が発生し、両者から信頼を得ていたリシュリュー枢機卿の働きかけによって事態が鎮静化するまで長い時間を要している。

 ルイ13世のもとで宰相を務めることになったリシュリューは、(フランス王が望む限り)戦争を頻繁に行うフランスの財政を支える経済力の強化に取り組むことになった。イギリスやオランダがフランスより強い経済力を持っており、その要が彼らの海軍力にあることを見抜いたリシュリューは、両国のような近代的な海軍をフランスも保有することを目指した。自ら設けた航海・商業長官の職に就任したリシュリューはブレストとトゥーロンに造船所を建設し、大西洋と地中海に常備艦隊を編成することを決定した。こうして現代まで続くフランス海軍(当時は王立海軍であるため、Marine RoyaleあるいはLa Royale)が誕生したのである。だが内政と外交に忙殺されていたリシュリューは、それ以上に海洋進出の政策をまとめ上げて実行に移すことはできなかった。

 

2-2.フランス海軍の父、コルベール

 リシュリューの後任となったマザランは概ね彼の政策を引き継いだが、海軍予算を大幅に削減してしまったため、フランス海軍が保有する艦船は30隻ほどとなり、イギリスやオランダと文字通り雲泥の差がつくことになった。そんなマザランの後任となったのは、商人の家に生まれ、商業や金融などの仕事を経て政界入りを果たしたジャン・バティスト・コルベールである。「太陽王」の異名を持つルイ14世(在位1643~1715年)に仕えたコルベールは、イギリスやオランダをモデルとした海軍力の増強を行い、リシュリューが果たせなかった海洋進出を更に推し進めようとした。

 上司のフーケ財務総監を謀略によって公職から追放して権力の座についたコルベールは、フーケが過去取り組んでいた海洋事業を熟知しており、またコルベール一族は貿易や港湾といった事業に関わりがあったこともあって、彼の海洋進出への熱意は凄まじいものがあった。艦艇を停泊させるだけでなく、艦艇の建造、整備、解体そして大砲や砲弾などの製造工場も有する軍事複合産業体とも言うべき海軍工廠を各地に新設しなければならないと意気込んだコルベールは大西洋沿岸部の調査に取り組んだが、その監察官に任命されたのは彼の従兄弟であるコルベール・ド・テロンである。また、海軍工廠の建設候補地を検討するのと並行して、コルベールはフランス国内にある船舶の数や大きさ、船主、船員などの現状を調査するため、各地の港町への本格的な調査も実施した。

 コルベールはルイ14世に提出した意見書の中で、フランスの商工業がイギリスやオランダに比して劣っていることを歴史的な視点から説明し、商業というものが弱小国や貧しい国で行われている行為という見解を批判すると共に、商業を活性化させることが現在のフランスにとって必要なことだと述べている。当時のフランスの主要産業は農業であったがその生産性は低く、リヨンなど絹産業などが盛んな地域も一部はあったが、イギリスやオランダに勝てるような競争力はなく、国内の商工業にも手を加えなければならないとコルベールは考えていたのである。

 コルベールが仮想敵かつ目標としたのは、海運業によってヨーロッパの物流を支配していたオランダであった。コルベールは国内の海運業を育成するため、本土と海外の貿易に従事するすべての船舶はフランス国内で建造されたものでなければならないとする「排他制」を施行するとともに、オランダやイギリスといった他国の製品に対して高関税をかけて国内産業を保護しその振興を図った。コルベールがとったこれらの政策は、重商主義政策に見られがちな保護貿易的なものであるが、コルベール自身はこの政策を長く続ける気はなく、フランスの海運業と商工業が十分に発達すれば自由貿易に移行するべきだと考えていたようである。また彼は、アジアでの貿易を行う東インド会社と、大西洋で奴隷貿易を行う西インド会社を新たに設立しているが、公金によって運営されるこれらの貿易会社も一時的あるいはその地域におけるフランスの貿易活動に保護を与えるためのもので、実際の商取引は貿易商人に自由にやらせるべきだと考えていた。こうしたところに商人の生まれであるコルベールの考えがよく反映されている。ただその一方では政治家として、フランス国内で鉱山や森林がある土地を持つ貴族に海外貿易に従事する商人となることを勧め、彼らに貿易における特権をいくつか与えてやることで鉱業や林業の活性化と王権の支配強化を企図することも忘れてはいない。

 海洋史家のオリヴィエ・シャリーヌ氏によれば、コルベールは自身の肝いりで新設する海軍工廠について、各工廠に資材調達の範囲を定める「自給圏」の構想を持っていたとされる。例えば、海岸から45kmまたは船が航行できる河川の河岸から9km以内にある森林は、海軍工廠が要求する度合いに応じて強制伐採や優先購入権を法令によって可能とし、また国内の植林事業にも積極的に取り組んだ。仮想敵のオランダと同様、船舶の需要が増したイギリスでは国内の森林資源だけではそれを賄えなくなっていたため、資源が豊富なバルト海沿岸部(ロシア)から輸入するようになったが、コルベールはフランス国内での供給に自信を持っていたし、そうでなければならないと考えていたのである。加えて、国内の商工業が発達すれば諸外国や植民地、海外市場との貿易は盛んなものとなり、需要が増加する船舶の建造のため林業や工業が活性化することはもちろんのこと、それに従事する人々は衣服やパン、ワインなど多くの商品を消費することになり、商業や農業も今より大きなものとなるなど好循環が生まれる。自給圏には、農業、商業、工業を包括した巨大な経済活動圏としての意味合いもあった。人々の消費活動が増大し、数十万あるいは数百万の雇用が生まれ、その経済活動が好循環なものとなれば、国家の富を増大させることができる。そして、その好循環のためには外部(諸外国や植民地)との間で行われる貿易が不可欠であり、それを保護するためにオランダやイギリスに匹敵する大艦隊をフランスも保有する必要があったのである。コルベールは海軍工廠の新設と並行して戦列艦を合計120隻建造、保有することを計画していたが、実権を握ってから10年もしない1670年初頭にはこの目標を概ね達成することに成功する。フランスは異例とも言えるスピードで、イギリス、オランダに匹敵する大海軍国の地位を手に入れたのであった。

 先述した通り、コルベールが仮想敵としたのはオランダであった。財務総監であったコルベールは、国家財政を逼迫する戦争という行為を拒否する傾向にあったが、オランダがこれ以上繁栄を続けるようであれば、最終的には武力に訴えることも必要であると考えていた。オランダが持つ艦隊や商船隊の規模を考えると、フランスが海上で優位を保つことは難しいが、陸上の戦闘であればフランスの軍隊が負けることはない。自身が進めた政策によって、オランダやイギリスとは貿易上の摩擦が発生しているが、それはフランスの国力増強のためには致し方ない処置であり、過去と違って両国に匹敵する大艦隊をフランスが保有している中ではあちらから戦争を起こすことは容易にできないだろう。オランダの繁栄を妬む者同士としてイギリスと共闘することも可能である。そうなればオランダの海上における優越に釘を刺すことも不可能ではない。コルベールは自らが育てたフランス海軍に対して、大西洋と地中海に強力な艦隊を配置することでオランダやイギリスを牽制して戦争を回避すること、またインドやアメリカなど海外貿易に従事する商船の保護(商人の軍事的負担の軽減)、島嶼などを拠点とする海賊の掃討など、平時における経済活動の庇護者としての役割を期待していたのであった。

 

2-3.コルベルティズムの帰結

 コルベールのとった政策は「コルベルティズム」と呼ばれる。地方長官への「質問状」による人口、食糧、住居、商業、工業などの実地調査、政府主導で外国から一流の職人を招いて実施した製作所(工場)の再編あるいは新設、外国からの輸入に頼っていた数多くの製品の国産化、雑多な商品の規格統一といった産業規制、他国製品への高関税付与、北アメリカ植民地の開拓や西アフリカにおける奴隷貿易海軍工廠と大艦隊の新設──統計を用いたコルベールの体系的な各政策は、フランス的重商主義政策を体現するものとして引用されることが多い。しかし実際、彼が取り組んだ政策はどのような実を結んだのであろうか。

 財務総監であるコルベールにとって最重要の課題は、リシュリューマザランの時代から続いている財政難を立て直すことにあった。加えて、コルベールが実権を握ったのはちょうど「17世紀の危機」と言われる経済不況がヨーロッパ各国を襲い、その被害が深刻なものとなっている時期であった。フランス近世史を専門とする深草正博氏によれば、実地調査によってフランス国内の経済活動が停滞していることを改めて認識したコルベールは、「17世紀の危機」に対応する手段として前述の政策に取り組んだのである。先の高関税政策も、オランダとイギリスの激烈な競争の中、危機がより深刻であったフランスが生き残るためにはそうせざるを得なかったというのが実情である。生産性の低い農業が主力産業であり、オランダやイギリスの毛織物工業のような競争力のある産業を持たず、各地域の共同体の力が強く、国内市場を統一できていない「相対的後進国」であったフランスでは、国家が介入し、強力なリーダーシップを発揮しなければこのような激烈な競争を生き残ることはできないと考えられた。こうした国家による経産界への介入は、後の時代を見てもフランスでは珍しいことではない。コルベールは調査の結果から、高級毛織物の生産動向が危機的状態にあることを認め、王立製作所の新設や産業規制の導入、助成金の投入、商品の品質向上などに心血を注いだ。北アメリカ植民地やカリブ諸島、西アフリカ、アジアへの進出も新たな市場の開拓を意図してのことであった。

 最終的に、フランスは「17世紀の危機」を克服した。だがそれは、コルベールのとった政策が効果を十分に発揮したからではない。危機の克服の中心にあったのは都市商人たちであった。コルベールが実権を握る前から経済不況を肌で感じ取っていた都市商人たちは、その対応として安価な毛織物の生産と販売市場の転換に取り組んでいた。従来は高級な毛織物を高く売ることが主流であったが、不況の中で人々の購買意欲は低下しており、顧客の要望に応じた安い商品を大量に生産することが求められたのである。この安価に大量生産するという方法を都市商人が選択できたのは、長引く不況によって農村での格差が拡大し、日雇農が増加したことで安価な労働力を都市商人が手に入れることができたからであった。このように独自の対応策を練っていた都市商人にとって、コルベールが行った産業規制などの政策は有害なものでしかなく、彼らは強く反対し続けた。「17世紀の危機」に対応する、という点では国家(コルベール)も都市商人も一致していたが、後者のより自発的かつ精力的な活動によって危機は克服されたと言える。コルベールがとった政策は補助的なもの、あるいは国家と都市商人の間で摩擦や競争を生む結果に終わった。

 17世紀にヨーロッパを襲った経済不況に対応し、また主君であるフランス王の栄光を偉大なものとするため、植民地の獲得、海外市場の新規開拓、大艦隊の新設に取り組んだコルベールであったが、その効果は極めて限定的なものに終わった。さらに、ルイ14世の対外戦争は止まることがなく、コルベールは財政再建を果たすことができないまま失意の中でこの世を去ってしまう。先述した通り、オランダを仮想敵としたコルベールは、大艦隊の存在によって相手を威圧することで戦争を回避し、フランスの経済力が強化されることを何よりも望んでいた。国土に直接危機が及ぶような自体ではない限り、極力フランス海軍が戦闘を回避していたのもそれが理由である。ところが息子のセニュレーは考えが全く異なり、イギリス艦隊を打倒することを目指した。コルベールが戦闘海域を地中海方面に限定しようとしていたのに対して、セニュレーがその範囲を大西洋まで拡大したことでフランス海軍の負担は大きいものとなり、攻勢的な作戦を取ることを選択した後も決定的な勝利をおさめることは中々できず、ついにはラ・オーグの海戦のような屈辱的な敗北を味わうことになる。ラ・オーグの海戦以降でも、フランスはルイ14世統治下で行われた最後の戦争であるスペイン継承戦争まで戦列艦120隻の体制を維持していたが、コルベールの時代から懸念されていた船員確保の問題と、巨大な戦列艦の費用対効果を疑問視する声もあり、実際に稼働することが可能な大型艦は減少していった。その一方でフランス海軍は使われていない戦列艦から船員を解放すると同時に、彼らに私掠免許状を与えてイギリス船やオランダ船への私掠行為を行わせるようになった。スペイン継承戦争中には3000隻近いイギリス船がフランス私掠船の被害にあったと言われており、その被害の大きさは商人たちの強い抗議を受けたイギリス議会が、イギリス海軍に対して従来の艦隊運用指針の変更を求めるほどであった。ただし、フランス私掠船の活動はイギリスの手足を傷つけて出血させることには成功したものの、その心臓に杭を打ち込むまでには至らなかった。

 ルイ14世の没後、摂政時代を経たルイ15世統治下のフランスは、イギリスと協調姿勢をとっていたこともあり海軍への関心は低いものとなっていたが、平時における商船の保護や海賊の掃討は変わらず重要な任務であったため、フランス海軍は以前より一回り小さい戦列艦を中心に建造することによって艦隊の縮小に対応しつつ、個艦能力の向上と運用の効率化を図ることになる。隻数では常にイギリス海軍の半分かそれ以下となったフランス海軍であったが、見方を変えればそれだけの隻数で平時における北アメリカ、カリブ諸島、インド沿岸部などの植民地との貿易を(実態はともかく)保護していたとも言える。しかし、オーストリア継承戦争七年戦争でイギリスと再び戦争になったときには、フランス陸軍が勝利を収める中、保有する艦艇の隻数が絶対的に劣っていたフランス海軍は苦しい立場に置かれ、結果的にアンリ4世からルイ14世の統治下で手に入れた海外植民地のほとんどをフランスは失うことになってしまった。

 七年戦争終結後、先代の偉大なる王たちが残した植民地を喪失することになったのはフランス海軍の戦力が不足していたからである、として海軍の再建を望む声が高まった。1750年頃に50隻ほどだったフランスの戦列艦海軍卿たちの努力もあってルイ16世統治下の1775年には75隻までに回復している。フランスはその後、アメリカ独立戦争においてアメリカの同盟国として再度イギリスと砲火を交えることになった。再建されたフランス海軍は、カリブ海においてイギリス海軍と一進一退、互角の戦いを繰り広げ、ついにはチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊に勝利を収めたことでイギリス側の重要拠点であったヨークタウンを陥落させることに貢献した。ヨークタウンの陥落により戦意を喪失したイギリスは和平を求め、アメリカはついに独立を手に入れたのである。フランス海軍はアメリカ最古の同盟国の海軍として、失った威信を取り戻すことができた。しかし、長きにわたって続いてきた財政難の問題は未だ解決することはなく、ついにはフランス革命とその後の混乱の中でルイ16世は処刑されてしまうことになる。「フランス王の栄光」と「国家の富」を目標に、植民地の獲得とフランス海軍の増強を図ったコルベールの政策が、フランス革命勃発の遠因となってしまったことは皮肉と言えよう。

 大略すれば、王政時代におけるフランスの海洋進出は、イギリスやオランダとの戦争における軍事目標達成の一手段として、またコルベールがとったような、国家が経産界に介入して実施する経済政策の一環として行われたものであった。他の欧州諸国と比較して、肥沃な土地と気候に恵まれていたフランスは、国内の資源が乏しいイギリスやオランダのように海洋を渡ってまだ見ぬ土地を開拓することを必要としていなかったのである。他の国々が海洋進出を積極的に実施し、それによって国内の富を増大させているのを横目に見てフランスも遅れて参加したが、自らが持つ大陸国家というアイデンティに最後まで逆らうことはできず、その政策は一貫性のないものとなった。大陸国家フランスには不必要とも思える大艦隊を支えるのは、フランス王家を示すフルール・ド・リスの入った白旗のみという非常に不安定なものでしかなく、フランス海軍はイギリスやオランダのように政治的、社会的そして産業的な基盤を完全に有していなかったのである。旧体制下のフランス海軍はあくまでもフランス王のための海軍でしかなかった。

 

2-4.共和国と植民地

 現在のフランスは「第五共和制」である。頭に数字がついていることからも分かる通り、フランスではまだ革命は完了していない。現職のエマニュエル・マクロン大統領はその著書の中で、国家を中心として織りなされる共和制、あるいは(フランス)共和国というものを「一つのプロジェクト」だと述べている。「自由、平等、友愛」をモットーとし、政治的、社会的または経済的に服従の状態に陥っているかあるいは陥ろうとしている自らを解放し、不公正や服従に対して強い憤りを示し、将来をより良くするため異なる個人と連帯するといった集団的努力を続け、ある問題に対してフランスがどのような考えを持っているのかを世界の人々に語る意志を持ち、そのための努力を怠らない、そういったプロジェクトである。この野心的なプロジェクトを実行しなければならないフランスは、自分の殻にこもって意見を何も言わないということはできず、やるべきことをまとめたリストのチェック項目がすべて埋まることはおそらく永遠にない。一つを埋めれば、また一つ項目が増えていくからだ。現在盛んに行われている年金改革デモ(2023年2月時点)もその一つなのだろうが、この厄介なプロジェクトのマネージャーに自ら進んで就くのは歴史の年表に載せるべき偉業だろう。

 さて、本章の冒頭で、私は「共和国」と「植民地」はどう考えても相反するものであると書いたが、上述したように「共和国」が「一つのプロジェクト」であるならば、相反するものであるはずの「植民地」はそのプロジェクトの一環であったということになる。つまり「植民地」は「共和国」と相反するものではなく、共和国の中にあるもの、あるいは相互関係にあったということだ。第一共和制、第二共和制は短命に終わったが、本記事の主人公である第三共和制はその進行には紆余曲折があったものの約70年と長く続いたプロジェクトであった。フランスの歴史家、小説家であるジュール・ミシュレは「一つの意志、もしそれが強固で長続きすれば、それが創造です」と述べたが、「共和国」はどのような意志を持ってイギリスに次ぐ規模の「植民地」を創造していったのだろうか。

 1870年の独仏戦争でドイツ諸邦に敗れたフランスでは、第二帝政が崩壊して第三共和制が成立することになったが、講和条約アルザス・ロレーヌ地方を奪われたことは王党派にとっても共和派にとっても耐え難い屈辱であり、敗戦はフランスの名誉と国民を大いに傷つけた。国内では軍国主義的かつ排外的なキャンペーンが行われ、「対独復讐」が至るところで唱えられるようになった。戦争が起きる前は哲学、科学、文学など多くの分野でフランス人を魅了していたドイツは、今や絶対に粉砕しなければならない不倶戴天の敵に変わったのである。しかし、敗戦を乗り越えてようやく新体制を確立させた当時のフランスには、ドイツへ戦争を仕掛ける力はなかった。1880年代後半に入るまで、フランス陸軍の作戦計画が防勢的なものであったことがそれを裏付けている。フランス陸軍が兵力増強を行おうとすれば、ドイツ国内ではフランスへの予防戦争(再侵攻)が叫ばれるような状況にあり、対独復讐に燃える世論と現実を理解している政府や軍部との間には乖離があったのである。政治の面では、1875年に新たに第三共和制が成立したが、王党派と共和派の争いは依然として続いており、またパリ・コミューンの記憶が鮮明な中では社会改革が必要と考える議員たちも急激な改革によって社会が混乱することを警戒し、市民によるデモやストライキを脅威と捉えていた。1879年、上院選挙で共和派が勝利したことによってようやく共和制が確立されたが、いまだ国民統合がされているとは言い難い状況にあった。王党派に勝利した共和派は穏健派と急進派に分裂し、以後は穏健派が中心となって政権運営を担うことになるのだが、彼らが打ち出した政策の一つが植民地の獲得、海洋進出であった。

 穏健派の主要人物であり、植民地の獲得を推進したのはジュール・フェリーである。彼は1789年のフランス革命、1848年の2月革命の継承者であり、初等教育の無償化と義務化を確立させた良き教育者、第三共和制の父とも言える人物である。共和国市民を作り出すのに重要な役割を果たしたフェリーは、経済的利益と文明化という人道的な理由に基づいて植民地を新たに開拓することを求めたのであった。フランスは独仏戦争によって国際的な威信を失い、国民は失意の中にある。フランスはかつての力を取り戻し、世界における覇権を示して、自分たちが世界の運命を司る立場にあるという栄光を再び手にしなければならない。その中で求められたのが海外への進出であった。フェリーは、フランス国内の勤勉な労働者によって生み出される製品はその販売先を必要としており、4億人とも5億人とも言われる人口を抱える中国は巨大な市場として有望で、フランス経済が活性化する上で重要なものとなることを議会で演説している。当時、欧州諸国で産業革命が完了したことによって起きた生産過剰に端を発する1873年から続く経済不況、いわゆる「大不況」の影響がフランス国内に及んでおり、政府は保護貿易的な政策をとることで対応しようとしていた。フェリーの発言は、海外への進出、市場の開拓、貿易の拡大、国内産業の振興など、王政時代と似通った目的の海洋進出と考えられるが、フェリーが進めた植民地獲得を含む海洋進出は単に経済的権益を求めたものとは言えない。第三共和制以降の植民地が、フランスにとって経済的にそれほど重要な意味を持っていなかったことはよく指摘されている。少なくとも1929年の大恐慌の影響がフランスに及ぶまで、海外植民地はフランスの貿易内では大きな地位を占めていなかったのである。不況の中で当時の多くの人々は、政府に声高にその対応を求めていたのであるが、1%から4%の範囲で緩やかながらも経済は成長しており、言われるほどの大きな停滞はなかった。ここで、フェリーの「優秀なる人種は、劣った人種の人々に対して権利を持っているのですよ」という発言を咀嚼すると、彼はいまだ統合されているとは言えない国民を結束させるためのナショナル・アイデンティの一つとして植民地、海洋進出を考案し、また利用したものと考えられる。

 ここで、当時の思想を知るために一人の人物に登場してもらおう。その人物とは、宗教史学者のエルネスト・ルナンである。1823年に生まれたルナンは幼い頃に親を亡くし、最良の理解者である姉の助けを受けながら神学校に進んで神学者を志したが、言語学を学びながら合理的な聖書解釈を試みている内にカトリック信仰への疑念が生まれ、最終的に神学者の道を諦めてしまった。ただその後も宗教への関心を失うことはなく、複数の古代言語に習熟していたルナンは数多くの文献を比較しながらキリスト教を中心とした宗教史を描くことに心血を注いでいた。そんな中で起きた独仏戦争と第二帝政の崩壊はルナンにとって大きな転機となる。第二帝政の崩壊、パリ・コミューンアルザス・ロレーヌの喪失、第三共和制の成立、王党派と共和派の争いなど数多くの惨劇を目の当たりにしたルナンは、「フランスの知的・道徳的改革」という本を出版した。この本の中でルナンは革命後のフランスが浅薄な民主主義を取り入れ、物質主義を蔓延させ、道徳的腐敗を進めたことが先の戦争で敗北した原因として自分を含めたフランス人を強く批判し、ナポレオンに敗れたプロイセンが復活するまでの経緯を手本として、様々な面でフランス国内に改革が必要だと訴えた。この本の出版後、ルナンは宗教史学者から思想家としての様相を色濃く見せるようになる。

 そんなルナンは1882年、ソルボンヌ大学で「国民とはなにか」という講演を行った。この講演でルナンは、「国民」とは人種、言語、宗教、利害、地理に依るものではなく精神的なもので、「過去の栄光と悔恨の記憶を共有し、未来に実現すべき同一の計画のもとで共に歩もうとする意志を持っている人々」と述べている。これは言語や人種を理由にアルザス・ロレーヌの併合を正当なものとしていたドイツへの反対意見としての一面があるが、いまだ分裂していたフランス国民に結束を呼びかけるものとして受け取ることも可能である。ただ、人々が結束する上で最大の障害となるのは、自分たちは必ず結束することができるという、純真無垢な称賛すべき意志であることも確かである。ルナン自身がどれだけフランス国民の結束に期待したかは定かではないが、その文面からは期待と同じぐらいの一種の諦めも感じなくはない。さて、ルナンはこの講演の中で、フランスを含めた欧州諸国の国民の在り方について次のように述べている。

 

「諸国民は、ときに対立することもある多様な能力によって、文明の共同作業に従事しています。すべての国民は、この人類の大演奏会で各々の音を奏でているのであり、結局、それこそがわれわれの達成しうる最高の理想的現実です」

 

 独仏戦争後、ドイツを激しく口撃していたルナンであったが、彼はドイツの哲学、文学、芸術を愛しており、フランスとドイツの戦争をヨーロッパ文明にとって最大の悲劇であると考えていた。ドイツ流の「国民」の定義に従えば、ヨーロッパから戦争がなくなることはない。ルナンは、欧州諸国を異なる楽器を持つ演奏者と捉え、「人類の大演奏会」にドイツを誘うことでヨーロッパを対立から和解の場にすることを望んだのであった。上述した「国民とはなにか」の講演も、その考えの延長線上にある。ルナンの「国民」に対する思想は、どちらかと言えば現代の解釈に近いものと考えることができるが、問題はこの「人類の大演奏会」である。演奏を奏でるのはあくまでもヨーロッパの国々であり、それ以外の地域の人々は含まれておらず、その素晴らしい音色を延々と聴かされる側ということになる。ここで演奏される曲こそが「(ヨーロッパ)文明の共同作業」、もっと言えば「文明化」であり、人種、言語、文化、宗教が異なるフランスとドイツでも、「文明化」という同じ曲を弾く演奏者となることで、その対立を無くせるものとルナンは考えていた。逆説的には、演奏者となる資格を持たない者については従来通りの、人種、言語、宗教、文化といった差異に基づく政治を行うことは至極当然ということになる。先程の「フランスの知的・道徳的改革」の中でルナンは次のように述べ、フランスが海洋進出を行って植民地を獲得することを支持している。

 

 「大規模な植民地開発、これは間違いなく政治が行うべき第一級の必要事である。優等人種が劣等人種の国を征服し、その国を征服しそこに留まることはなんら道理に悖ることではない(…)対等な人種間の征服が非難されなければならないのと同じぐらい、優等人種が劣等人種や退化した人種を再生させることは、人類にとって摂理に等しい(…)自然は労働者の人種を作り出した。これが中国人種である(…)大地を耕す人種、これが黒人である(…)主人にして軍人である人種、これがヨーロッパ人種である」

 

 「文明化」という共同作業に参加することで仏独両国の緊張をほぐす──フェリーら政治家たちもルナンと同様の考えを持っていた。独仏戦争の敗北で失った威信を、植民地の獲得と同地の文明化によって取り戻すという思想は、対独復讐に燃える世論を宥め、また国民の間に同一の計画を持たせて結束を促せる点で好都合であったし、フランスがその矛先を海外に向けるのはドイツにとっても歓迎すべきことであるから、その行動を容認してくれるものと考えられた。フェリーと対立するクレマンソーら急進派の議員は、フェリーらが進める植民地獲得は暴力的な行為に依るもので文明化と言うことはできず、将来的なドイツとの戦争に備えるためにも国内に資材を集中すべきだと反対し、実際フェリーは植民地獲得に関する問題で何度か倒閣の憂き目にあっているが、それでも植民地の獲得は1880年以降本格的に実施されることになる。

 

2-5.私の理想郷に手を出すな!

 イギリスは「白人の責務」、アメリカは「明白なる天命」、そしてフランスは「文明化という使命」によって帝国主義的な活動を実施した。この3カ国がとった政策の細部は異なるが、自らの思想を他者に押し付ける権利と義務が自分たちにはあると考えていた点で共通点がある。ただ、植民地を獲得する上でフランスが他2カ国と異なったのは、その正当化に特に注意を払っていたことである。第三共和制の指導者たちは、植民地獲得と文明化という共同作業に国民を参加させることでその結束を確かなものにしようとしたが、その植民地政策が旧体制や立憲君主制のイギリスとは異なることを内外に示す必要があった。そうでなければ、プロジェクトの名前が「共和国」である必要性がないからである。旧体制では、宣教師や入植者が植民地に送り込まれ、奴隷制という恥ずべき制度のもとで経済的搾取が行われた。また、イギリスは人種間の優越に基づいて海外植民地を統治あるいは拡大することは当然であり、わざわざ理由付けをする必要などないと考えていた。フランス、いや共和国は違う。共和国は、その慈悲深さ、善良さ、寛大な心によって共和国市民だけではなく、海の先にいる野蛮人や後れてきた兄弟に手を差し伸べ、人類全体の明るい未来に向かって共に歩いてくれる、慈愛に満ちた母親のような存在なのである。旧体制のような、収奪を繰り返すだけの横暴な父親とは違うのだ。フランスはその寛大さと善良さにおいて旧体制やイギリスのような植民地とは異なり、原住民を服従させるためではなく彼らを暗闇から明るい場所へと導くための植民地を作ろうとしているのである。

 しかし現実には、植民地では服従、強制労働、拷問といった光景は珍しいものではなかった。ここに矛盾が発生する。奴隷制の廃止を訴え、人々に明るい未来を確約しようとする人権の国であったはずのフランスでどうしてそのようなことができたのか。フランス国内でフランス革命の標語を繰り返し叫ぶような人々はなぜ植民地獲得を支持したのか。クレマンソーがフェリーに反対したのは、現地で行われている植民地開発というものが、およそ「文明化」とはかけ離れた暴力行為に基づくものであったためである。フランス国内では海外植民地について、本国と同等の権利を植民地の人々にも与えるなどの提案がされたことがあったが、それらのほとんどは実行されることはなかった。これにはいくつか理由があるが、その一つに入植者の強い反対があった。フランス本国を離れ、過酷な気候、劣悪な衛生環境の植民地に移住した人々にとって、その苦悩を紛らわすものは自らがフランス人であるという事実であった。自分はフランス国民の一人として、共和国が進める文明化という大事業のために海外の恵まれぬ土地にやってきて様々な活動に取り組んでいるのだと。そうした入植者にとって、フランス本国との繋がりは非常に重要なものであるが、原住民にフランス本国と同等の権利を与えることはその喪失を意味することになる。入植者は「共和国」を人質にして、自らの特権が損なわれることがないよう本国が改革を検討するたびに訴えた。本国も、文明化を担う入植者が反乱を起こすことは国内の混乱へと繋がることを警戒し、彼らの反対を受け入れるままであった。フェリーら穏健派を口撃していたクレマンソーにしても、あくまで現在の植民地事業が暴力行為に基づいていることがフランスの「栄光」を損ねるものとして反対していたのであって、植民地事業そのものを否定していたわけではない。右派は、自然界を見て分かる通り、人間社会にも強者と弱者が存在し、弱者が強者に従うのは当然のこととして、植民地と本国の格差を正当化した。左派は、植民地と本国の格差を埋めることはまだできないが、教育などによってその差を縮めて行くことが可能であり、フランスにはその権利と義務があるとして植民地の正当化を試みた。共和国が植民地を持つ上での矛盾は、プロジェクトの一つであるナショナル・アイデンティを構築するためにかき消されたのだった。

 植民地は共和国が自らの理想郷を求める上で実験場としての役割も果たした。第三共和制の指導者たちは、第三共和制憲法(第1章で述べた通り、計34条の法律の総称である)に沿って国家を運営していったが、王党派や軍国主義者、社会主義者無政府主義者など数多くの敵を抱える中で、どのような国家と社会を構築するのが最適か模索していた。中央集権的な国家体制がまずアルジェリアで試され、セネガルサハラ以南アフリカなど他の植民地にも適用されていき、その一方で一部では部族社会を利用してのちに弱体化させる試みが取られた。共和国の指導者が求めていた理想郷的な植民地、そして共和国は、人種や階級に関係なくすべての人間がともに力を合わせて明るい未来へ進もうとする場所であったが、アフリカはそのための実験場であったのである。植民地を獲得し、そこで共和主義的な思想に基づいた改革を実施し、後れてきた兄弟を自分たちと同じ段階にまで引き上げて(完全な対等ではない。それが達成できるならば、共和国が植民地を獲得して保持する理由がなくなる)人類全体の未来のため歩んでいく。植民地という、「未来に実現すべき同一の計画」のもとで共に歩もうとする意志を国民が持つことで、指導者たちは共和国に起きている動揺を鎮めようとしたのであった。そして、この思想は実際に国民に共通するものとして受け入れられ、フランスがアフリカ諸国の独立を認めた1960年まで受け継がれることになったのである。植民地とその文明化という一つの意志は、90年近く強固で長続きするものとなった。このようにして、フランスは共和国であるにもかかわらず、イギリスに次ぐ世界第二位の植民地を創造することができたのである。

 

2-6.共和国の警察官

 先述したように、共和国の指導者は国民統合を進める上で植民地事業を有効的に活用したが、この事業で大きな役割を果たしたのは学校、教会、そして軍隊であった。学校は文明化という観点で植民地事業に大いに貢献したと思われるのが常であるが、実際にその恩恵に預かることができた原住民の数は少なかった。確かに植民地では学校がいくらか作られはしたし、実際にそこで学問を修めてフランス本国の大学に進み議員になった人物もいるが全体で見れば僅かに過ぎない。学校は、子供たちに共和主義的な思想を教えるのと並行して、「共和国の植民地」という植民地文化を国内で幼少期から形成するための役割を担うことで植民地事業に絶大な貢献を果たしたのである。続いて教会であるが、政府が世俗主義に向かう中で国家と教会は激しく対立していたが、植民地に関しては共謀する関係にあった。国内の教育を巡り、共和国の学校にその座を脅かされていた教会は、共和国が進める植民地獲得に自分たちの活躍する場を見出したのである。共和国の指導者にとって、教会もとい宗教は紛れもない敵であったが、フランスの世俗化を進める上で居場所を失ってしまう教会に海外植民地という再生の場所を与えようとしたのであった。

 最後に軍隊だが、1870年の独仏戦争の敗北は軍隊の名誉を大きく傷つけた。そうした中で、植民地の獲得──アフリカやアジアの征服──は彼らの傷を癒やすものとして期待が持てるものだった。植民地での戦闘は、欧州諸国とのそれに比べると格段に容易なものであったし、本国勤務では叶わないような昇進のチャンスがあったからである。すでに獲得したアルジェリアの次に狙われたのは東に位置するチュニジアであった。ドイツは先の理由からフランスのチュニジア獲得を黙認し、アルジェリア信仰の際に圧力をかけてきたイギリスも、新興国イタリアがチュニジア保有することに否定的だったためフランスを支持する側に回った。ドイツやイギリスの支持のもと、フランスは1881年チュニジアに侵攻。フランス海軍はフランス陸軍兵士が乗る輸送船を護衛し、部隊の揚陸後は沿岸砲撃で陸軍を支援した。二年後、チュニジアオスマン帝国支配下から離れてフランスの保護国となっている。以後フランスは、西アフリカから中央アフリカと、アフリカ内陸部の植民地化を積極的に進めた。一方、アジアでは1884年ベトナムの宗主権を巡って清との間で戦争が発生し、優勢なフランス艦隊によって清国艦隊は撃破され、翌年の天津条約で清はベトナムの宗主権を放棄した。第二帝政時代に獲得していたコーチシナもあわせてフランス領インドシナが成立することになる。こうした軍事行動は、軍隊の名誉を回復させるのに大きく貢献するだけでなく、当時フランス国内に流行りつつあった異国趣味も合わさり、支持されるようになった。軍人は単なる征服者ではなく、未開の土地を開拓する冒険家としての役目も引き受け、冒険物語に熱中する大衆や、植民地の動物や植物に強く関心を示す様々な学者の注目を集めるようになったのである。植民地で起きる戦闘は「戦争」ではなく、「治安の維持」や「秩序のための作戦」という名前で呼ばれた。戦争が起きるためには「国民」や「国家」が必要であるが、植民地にはそれがない。いるのは野蛮人や後れてきた兄弟だけである。暴虐の限りを尽くす野蛮人やその王を排除して同地の人間を救い出し、彼らを保護して安全な場所を与えてやらねばならない。学校が共和国の司祭であり、教会が宣教師の役割を担っていたと考えれば、軍隊は警察官といったところだろう。

 軍隊は共和国の警察官と述べたが、そのうちの一人であるフランス海軍にとって、植民地事業は自らの存在理由を示せるものだった。独仏戦争において、フランス海軍はバルト海に進出してプロイセンに対して海上封鎖を行い、外洋では大量のプロイセン商船を拿捕するなど大きな戦果を上げていたが、陸戦の劣勢を受けて海軍兵士までもが地上戦に加わることとなり、最終的に独仏戦争はフランス側の敗北に終わってしまう。対ドイツ戦争を考えたとき、地上戦で多少の貢献しかできなかった海軍にどれほどの存在意義があるのかと国民から問われる苦しい立場にフランス海軍はあった。そんな中、共和国が進める植民地事業において、陸軍兵士だけでなく、冒険家、宣教師、医者、教師、学者、技術者など文明化の作業を担う人々を安全に植民地へと送り出し、彼らと本国のつながり(精神的かつ物質的なものである)を保護するという重要な役割を担うことになったのである。この時期、新興国のドイツやイタリアの海軍も成長を見せていたが、まだフランス海軍は優位に立っていたため、強力な軍艦を新規に大量建造する必要もなかった。無論、イタリアの新型装甲艦が登場したときには対抗のため、新規に装甲艦を建造したりしているが、本格的な戦闘を想定した大規模な艦隊計画は予算や世論の影響もあって難しいものがあった。また、植民地獲得を巡っては、イギリス含めた欧州諸国と緊張が起きたこともあったが、フェリーやルナンが考えていたようにヨーロッパでの戦火を避けるため、植民地での利害を裏で調整する暗黙のルールができており、海軍は砲艦外交用としての性格を強く帯びることになる。こうして、フランスは第二帝政時代に計画されていた軍艦を継続して建造する一方で、装甲艦と木造低速の巡洋艦を新規に数隻建造することになった。アフリカの原住民が持つ「艦隊」は、フランス海軍が持つ巡洋艦1隻でも十分に対応することができたからである。

 この時期の第三共和制の海洋進出については上述のとおりであるが、コルベールの時代、つまり旧体制と比較すれば経済的利益の追求という類似点がある。つまり、コルベールの時代には17世紀の危機、第三共和制においては大不況という経済不況に対応するためフランスは植民地を獲得していったという見方である。これには一応の説得力があるし、植民地事業において大きな利益を得ていたイギリスの例を見れば、フランスがそうした不況に対応するため植民地事業を実施したという主張にも頷ける。しかし、両者の類似点ではなく相違点に注目するとどうであろうか。王制と共和制、専制主義と民主主義、貴族と大衆など、当然ではあるが旧体制と第三共和制では植民地に関連する諸条件は大きく異なっている。そうした条件を考慮すると、第三共和制の植民地は旧体制やイギリスと比較すると相対的に経済的理由の割合は少なく、共和国というプロジェクトを成功させるナショナル・アイデンティを確立させたいという思想的理由の方が大きいのではなかろうか。無論、第三共和制の植民地でも経済的搾取が行われなかったわけではないし、実際にそれは起こっていた。所有権を持つ段階にない者が住む土地を開拓し、彼らに教育を施す入植者がその土地の恵みを報酬として受け取るのは当然、という思想があったことを考えれば、それを否定する特別な理由もない。念のために書いておくが、私はここで、旧体制や第三共和制、イギリスなどいずれかの植民地政策に肩入れをしたいわけではない。歴史上のいくつかの事象について、類似点に注目して想像を膨らませることは楽しいことであるし必要なことであるが、それは故意に相違点を見えないことにするのにも繋がってしまうし、あるいは本来無数の糸が複雑に絡み合った事象であるものを一本の糸のように単純化してしまう恐れがあると考えるので、このような比較を試みているのである。それに、たとえ搾取がなかったとして、よそからやってきてそこに住む人々の言語や文化、土地を破壊して修正しようとする行為が、人間にとってどれほど残虐な行為か改めて言う必要もないだろう。

 相違点と言えば、旧体制と第三共和制の比較ではフランス海軍にもそれは見られる。コルベールは植民地の獲得と並行して、イギリスやオランダに匹敵する大艦隊の新設を目指し、実際それを成し遂げることに成功したが、第三共和制では前述した通り大艦隊の整備などは行われておらず、第三共和制成立後は1880年の中頃まで数隻の装甲艦や巡洋艦を新しく建造しただけである。旧体制と第三共和制では、海軍が使用する艦船には帆船と蒸気船という相違点があり、独仏戦争後の国情を考えればそれは納得できるものであるが、再度旧体制と第三共和制の相違点に注目するとまた違う見方もできそうである。共和国が植民地事業を進める中、警察官としての役割を持っていたフランス海軍であったが、1880年後半になると地中海ではイタリアがイギリスからの技術導入によって艦艇国産化を着実に進めて海軍力を増強していた。また、依然として圧倒的な海軍力を保有し、アフリカ植民地を巡って緊張関係が高まりつつあったイギリス、そしてフランス以上に大陸国家であるドイツが、海軍力の増強に取り組んでいることも懸念の対象となりつつあった。警察官としての役目も重要だが、兵士としてこの事態に対応する必要が生じていたのである、そうした中で、フランス海軍の内部には海軍軍人のテオフィル・オーブを中心とした「新学派(ジューヌ・エコール)」という派閥が出来つつあった。この事態に対して、彼ら新学派はどのような主張を行い、また共和国の中で存在を大きくしていき、そして受け入れられていったのか。次章ではオーブの著作と当時のフランスの政治制度を参照しながらそれについて確認してみたい。

 

「人間の中に精神的変化が訪れるとき、すなわち、人間が一つの観念を、あるいは一つの徳、あるいは一つの能力を更に獲得するとき、ただちに彼の心を占める欲求は何でありましょうか。それは、彼の感情を外なる世界に送り出したい、彼の思想を外部に実現したいという欲求であります。(…)すなわち彼は自分の内部で成就した変化、改善を自分の外に拡張し、これに支配的地位を与えるように、本能から、内なる声から強いられ刺激されるのを感ずるのであります。偉大な改革者の出現はこれ以外の原因に基づくものではありません。自分自身を変革した後に世界の局面を変化せしめた大人物達は、これ以外の感情によって推進され、支配されたことはありません」――フランソワ・ギゾー(フランスの政治家、歴史家。七月王政下で首相を務めるが二月革命後に政界を退く)