フランス海軍 (Part 0.25)

 戦間期のフランス海軍について書く(Part 1.0に入る)前に、19世紀末のフランス海軍について書いてみようと思います。第三共和政の成立(1871年)から大戦勃発(1914年)までの約40年―――いわゆる「ベル・エポック」の時代―――について、フランス海軍はどのような背景の下、どのような方針で海軍を整備していったのでしょうか?見てみましょう。

 

 

 1. 困難

 普仏戦争が始まった時、フランスはイギリスに次いで世界第2位の海軍戦力を有しており、プロイセンの艦隊は取るに足らない存在でした。実際、商船は通常通りの運航を維持し、海外からの輸入は滞りなく行われていましたし、漁船も平時と変わらず操業していました。また、フランス艦隊は海上封鎖を実施し、80隻のプロイセン商船を拿捕しています。Part 0の時に述べたフランス海軍に求められる役割は見事に達成されたと言えるでしょう。

 しかし、準備不足のフランス陸軍はプロイセン陸軍に敗退を重ねます。海軍がパリ防衛のために水兵を出動させる事を承認するほどに追い詰められ、ついにはセダンでナポレオン3世自身が捕虜になるという屈辱的な形で敗戦を迎えてしまいました。これによって第二帝政が崩壊しただけでなく、ヴェルサイユ宮殿でドイツ第二帝国を誕生させてしまうという最悪の事態を招き、フランスは国家レベルでヒステリーに陥りました。そして混乱が治まったのち、フランス国民の中には「パリ防衛の地上戦でしか活躍していなかった"フランス海軍"に存在価値があるのか」という考えが出てくるようになります。海上の戦闘や輸送の価値といったものは大衆の目に届きにくいので仕方ないかもしれませんが、民衆や政治家の中に昔から存在した「軍艦は金がかかるばかりでいざ戦闘になっても大きな活躍をすることができない」という意識がより高まるようになりました。

 フランス海軍は数百年に渡ってイギリス海軍に対抗することだけを目標として艦隊の整備を進めてきましたが、普仏戦争の敗北と周辺諸国の勢力拡大という新たな国際情勢に対応する必要に迫られることになりました。対独復讐のために強化するべきは陸軍であり、"役に立たなかった"海軍は必然的に予算を減らされる対象となります。さらに、ドイツより先に統一を果たしたイタリアと、統一後急速に勢力を拡大するドイツが更なる海軍増強を行えば、これらにも対処する必要が出てきます。もはやイギリス一国だけを考えた建艦方針は放棄せざるを得ませんでした。大陸国家でありながら海洋国家としての要素を併せ持つフランスの難しさがここにきて露わになり、第三共和政下の海軍はこの困難な課題を抱えながら新たなスタートを迎えることになりました。

 

 2. 植民地獲得と新たな脅威

 第三共和政が始まってからしばらく経った1870年代後半になると、ジュール・フェリーをはじめとした政治指導者から普仏戦争の敗北で失った威信を海外植民地の獲得で取り戻そう、という主張が為されるようになり、これは徐々に支持を集めていきました。最初の拡張先に選ばれたのはフランスが過去に獲得したアルジェリアの東に位置するチュニジアでした。対独復讐主義から目を逸らさせるのに好都合と考えたドイツはこれを認め、30年前のアルジェリア征服では圧力をかけてきたイギリスも、イタリアがシチリア島対岸のチュニジア保有することには否定的だったので、フランスを支持しました。チュニジアに対して国家統一時からずっと関心を寄せていたイタリアは、フランスの行動に反対しますが、他国の支持を集めることができず、チュニジア獲得の夢を捨てざるを得ませんでした。これは後の仏伊関係の悪化に繋がります。列強諸国が支持する中、フランスは1881年チュニジアへ侵攻。フランス海軍は陸軍兵士が乗る輸送船を護衛し、到着後は積極的な沿岸砲撃で陸軍を支援しました。1883年、チュニジアオスマン帝国支配下から離れてフランスの保護国となります。

 次にフランスが目指したのはアジアでした。香港という拠点をイギリスが持っていたのに対し、フランスは進出が遅れていました。さらなる植民地の獲得により威信を高め、アジアでの貿易に適した拠点を確保し、自分たち白人の使命である「文明化」を達成し、苦しい立場にある海軍の存在意義を植民地の獲得と通商保護に見出す・・・そうした様々な欲望がアジアには向けられていました。当時、清が宗主権を有していたベトナムへの進出を海軍は強く要求し、ついにはベトナムの宗主権を巡って清との間で1884年、戦争が勃発します。優勢なフランス艦隊によって清国艦隊は撃破され、ついに1885年の天津条約で清はベトナムの宗主権を放棄し、フランスはインドシナを手にしました。ただ、フランスが「自分たちの香港」と呼んで獲得を期待していた澎湖諸島(台湾西方に位置する島嶼)は、東南アジアにおけるフランスの影響力拡大を懸念するイギリスの圧力によって、その領有を断念せざるを得ませんでした。

 フランス海軍はアフリカ、アジアなどへの展開を積極的に実施し、植民地獲得とその防衛に存在意義を見出し、その後も植民地拡張を支持するようになります。1870年から1880年前期にかけて建造されたフランスの巡洋艦は、少ない予算の中で植民地の通商保護を主眼とした、比較的安価な仕様の木造低速艦がその多くを占めています。フランス海軍も各国の風潮に対応して、鋼鉄製の巡洋艦の建造には取り組みましたが、数隻で打ち切り、結局木造低速艦の建造に戻ってしまいました。この理由としては船体を鋼鉄製にすることによる建造費の高騰、鋼材の供給力不足、また熱帯地域での木造艦の居住性の優位性などが挙げられています。この時期のフランス海軍の建艦計画は無定見と言っていいもので、平時、戦時における植民地保護という名目で建造は行うものの、実戦で使うにはあまり期待できない性能の巡洋艦がせっせと整備されていました。

 また、沿岸防衛にあたる装甲艦は、イタリアやイギリスに対抗するためそれなりに有力な艦が建造されてはいたものの、起工から竣工までときには10年かかるなど建造期間は総じて非常に長いものでした。このような事態を招いた理由として、鋼材の供給不足や造船所の労働管理などが挙げられますが、最も重大だったのは、少ない予算で何とか良い艦を建造しようと、効果的と思われたアイデアは建造中であろうが積極的に採用して度々設計変更を行い、建造工程を狂わせた海軍の指導力の無さにあるでしょう。ナポレオン3世と彼の下で働いた名造船官デュピイ・ド・ロームのような強力なリーダーシップを持つ人間は当時フランスにはいませんでした。

 1880年代後半になると、フランスにとってドイツ、イタリアなど新興国の台頭はもはや無視できないものとなっていきます。フランスが特に警戒したのはチュニジア侵攻以来、関係が最悪のイタリアで、次点で植民地の権益を巡ってまだまだ関係が良好とは言い難いイギリスでした。圧倒的な勢力を誇るイギリスと、新興国ながらも優れた艦艇を設計、建造し、着々と地中海での影響力を高めるイタリアの両方に対してフランスは新たに戦略を練る必要が出てきていたのです。せっかく見つけた存在意義とそのための建艦方針もまた考え直さなければならなくなりました。

 

次回(Part 0.5)は日本でも有名な「ジューヌ・エコール」について。

 

なお、今回の記事を書くにあたって使用した主な参考文献は以下のとおりです。

 

「特集・フランス海軍」(世界の艦船 1978.NO.259 海人社)

「特集・フランス海軍」(世界の艦船 1987.NO.387 海人社)

「フランス戦艦史」(世界の艦船 増刊第38集 1993.NO.473 海人社)

「イギリス巡洋艦史」(世界の艦船 増刊第46集 1996.NO.517 海人社)

「フランス巡洋艦史」(世界の艦船 増刊第50集 1998.NO.546 海人社)

「イタリア巡洋艦史」(世界の艦船 増刊第54集 2000.NO.563 海人社)

「ドイツ巡洋艦史」(世界の艦船 増刊第60集 2002.NO.601 海人社)

サリヴァン、深田孝訳「第十一章 決定的影響力を行使する戦略―イタリア(一八八二~一九九二年)」マーレ―、ノックス、バーンスタイン編、石津朋之、永末聡監訳『戦略の形成〈上〉―支配者、国家、戦争』筑摩書房, 2019年

宮下雄一郎「フランス海軍とパクス・ブリタニカ」田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ有斐閣、2006年