フランス海軍通史 第九回:冷戦とフランス海軍─第四共和制と植民地帝国の終焉─

前回(第八回:第三共和制ー夢幻の安全保障ー)の続きです。

 

 

9-1. 歪んだ六角形―第四共和制―

 第二次世界大戦後、新たに発足した第四共和制にとって不幸だったのは、この共和国が退廃的な繁栄の末に崩壊を迎えた第三共和制の反省から生まれたものではなかったことである。第二次世界大戦でドイツに緒戦で敗北し、屈辱的な休戦によって自信を喪失した大多数のフランス国民は、第一次世界大戦時の英雄フィリップ・ペタン元帥率いる君主的で独裁的な新政府(ヴィシー政府)を支持していた。もちろん、国内にはドイツに対するレジスタンス運動に参加したフランス人や、自由フランス軍に参加して戦争を遂行したフランス人も存在したが、人口の割合で言えば大多数ではなかった。自由フランス率いるドゴールやレジスタンス運動の中心にあったフランス共産党の活動を無視することはできないが、フランス本土の解放、そして第二次世界大戦終結に導いたのはアメリカやイギリス、そしてドイツに直接的な打撃を与えたソ連であった。フランス本土の解放が、アメリカとイギリスの手で行われたのはフランスにとって幸運であったと言える。ソ連の言う「解放」がどのようなものかを語る必要はないだろう。

 第四共和制の発足に確かな支持を与えたのがフランス国民の三分の一に過ぎなかったのは共和国最大の弱点であったが、これは当時のフランス国民の葛藤をよく示していた。議会万能主義、多政党体制といった第三共和制の問題点を認識した上で新たな政体を模索するならば、強力な行政府(「頭」の確立)を望むと思われるが、戦後フランスはそうはならなかった。ドイツに惨敗した第三共和制の問題を払拭する新しいフランスを求める思いはあっても、ナチスに加担した独裁的なヴィシー政府を自分たちが支持していたという覆しようのない事実、そして第一帝政第二帝政といった強力な行政府の確立が、フランスに与える結末(どちらも戦争によって崩壊している)を歴史の年表で知っているフランス国民は、第三共和制と同じ議会主導型の政体を半ば諦める思いで受け入れたのである。第三共和制と同じく、第四共和制の議会は政党が互いの足を引っ張り合う場所となり、長期に渡る安定した内閣というものは存在することができず、国民はそのような政府に失望を示す他なかった。

 フランスはその国土の形から「エキサゴンHexagone(六角形)」と呼ばれることがある。フランスがまだフランスでなかった時代から、長い時間をかけて形成された六角形を受け継いだ第三共和制は驚くべきことに70年あまり存続していたが、第二次世界大戦という内外からの衝撃によってその六角形を完全に歪められてしまった。歪んだ六角形こと第四共和制は、この非常に不安定な状況の中で経済復興、東西冷戦、植民地独立運動といった問題に取り組まなければならなかったのである。

 

9-2. 対米依存の経済復興

 1945年2月、フランスを除いたアメリカ、イギリス、ソ連の3カ国で行われたヤルタ会談を屈辱と感じ、同月のルーズベルト大統領からの会談申し出を拒絶したドゴールであったが、フランスの復興のためにアメリカの支援が必要であることはよく理解していた。ドゴールは1945年2月にはジャン・モネを、同年8月にはジョルジュ・ビドーを当面の支援要請のために渡米させている。ドゴール辞任後に発足したフェリックス・グーアン内閣は、戦後復興のための通貨・経済・社会計画をアメリカに提示し、1946年5月にブルム=バーンズ協定(米仏協定)を締結した。この協定によって、フランスはアメリカから26億ドルの援助を受けることになった。余談だが、ブルム=バーンズ協定で援助を受ける代償として、フランスはアメリカ映画をフランス国内で大量に上映することを約束するという不愉快な条件を受け入れている。フランスは戦後、ディリジズム(国家主導型経済)のもとで銀行、ガス、電力、石炭など複数の企業の国有化(ルノーなど戦争中ドイツに協力した企業への懲罰としての側面もあった)や賃金上昇など、復興に向けた数多くの努力をしていたが、外貨不足は深刻であり、また天井知らずのインフレに苦しみ、パンの配給制を継続しなければならないなど、復興は思うように進んではいなかった。先のブルム=バーンズ協定も、この危機を乗り越えるために締結したものである。1947年6月、アメリカから発表された欧州復興援助のためのマーシャル・プランでは、援助額は総計比で20%強(諸説あり)とイギリスに次ぐ多額の援助を受け取ることができた。同時期に国内で検討されていた、生産設備の近代化や労働生産性向上を含んだ復興計画(モネ・プラン)が若干修正される形でマーシャル・プランの受け皿となり、ようやくフランスの経済復興は始まった。

 少し話が逸れるが、フランスは歴史的に経済が弱いと言われており、これはカトリック信仰、マルサス主義の支配、資本主義の後発性が大きいとされる。まず、今ではそうでもないが、かつてカトリック信仰の篤かったフランスでは、「利益追求は神の教えに背く」という教理によって、経済活動の拡大を自制する向きが強かった。経済活動の拡大を望む商人たちはプロテスタントに改宗、あるいはオランダや北ドイツ、スイスなどに渡ったわけだが、そうでない人々は「国家」を頼りにした。個人の利益追求は神に許されないかもしれないが、国家(当時は教会にその正統性を保障されているフランス王)の介入のもとで行われる経済活動の拡大ならば、それによって利益を得る個人も免罪されようということだ。第一回や第二回で紹介したリシュリューやコルベールの重商主義政策が具体的な例である。王政廃止後も「国家」が頼りとなる存在にあることは変わりなく、フランスは概して「上からの改革・指導」に対して肯定的である。

 次に、19世紀イギリスの経済学者であるトーマス・マルサスをはじめとするマルサス主義は、近代フランスの産業界に大きな影響を与えていた。マルサスは「人口は幾何級数的に増えるが、食糧は算術級数的にしか増えない」として人口増加の抑制を主張していたが、人口が豊かな時期に起こる悲劇(大飢饉、黒死病宗教戦争フロンドの乱ルイ14世の戦争、フランス革命ナポレオン戦争など)に事欠かなかったフランスでは、マルサス主義は強い説得力があった。「人口増加は凄惨な悲劇を生み出す」と考えた経営者たちは、人口増加を増長する過剰な生産と競争を忌避して小規模、同族経営のスタイルを変更しようとせず、政府はそうした国内企業の生産力に見合ったものになるよう人口をたえず調整していたのである。

 最後に、資本主義の後発性であるが、フランスは第四回や第五回で紹介したように植民地獲得競争でイギリスに敗れ、北アメリカやインドといった国際的市場を早期に失った。さらに、フランス革命ナポレオン戦争による経済的打撃が加わったことで、フランスはイギリスと大きく差をつけられてしまった。利益追求を悪徳とする古くからの認識は、(資本主義によって利益を得ているにもかかわらず)資本主義に対して何か後ろめたいものをフランス国民に感じさせていたのである。革命と戦争で傷ついたフランスでは企業や市場による自力の再興は不可能であり、国家の介入は不可避であった。そしてその再興は、先述した理由によって成長に一定の制限が設けられ、また保護主義的な思想が強いものとなったのである。

 しかし、第二次世界大戦後、そうしたフランスの価値観は大きく変化した。ディリジズムとアメリカの資金援助によって、年平均成長率は5%にもなり、消費の拡大と経済の回復に貢献する出生率の増加(ベビーブーム)も合わさって、政治の停滞とは対照的に「栄光の30年」と呼ばれた高度経済成長をフランスは迎えることになった。戦前に採択されていた週40時間労働、2週間の有給休暇制度(バカンス)といった労働政策は、産業の再興と組み合わさる形で今までのフランスでは見られなかった大量消費社会の実現に寄与し、国民の生活水準は大きく向上した。上記のように、戦後フランスはアメリカに大きく依存する形で経済復興を成し遂げたが、フランスが依存したのは経済面だけではなかった。

 

9-3. 北大西洋条約機構(NATO)の成立とフランス海軍

 第二次世界大戦後にヨーロッパ諸国が享受した平和はあまりにも短いものであった。1946年にはイギリスのチャーチルが唱えたように東西間に「鉄のカーテン」が引かれるようになり、1947年5月には大戦中のレジスタンス運動によって戦後大きな影響力を持っていた共産党員がアメリカからの圧力によって政権から除外されるなど冷戦の深化は始まっていた。第四共和制は復興に努める傍ら、新たな安全保障体制の構築を模索することになる。フランスはまず、先の大戦と同じくドイツの復活を強く警戒してイギリスと防衛条約(ダンケルク条約)を1947年3月に締結した。

 だが1948年2月のチェコ政変によって、ソ連の脅威が現実的なものとなると、イギリスとフランスは同国に対処するためベネルクス諸国を招く形で五カ国による相互防衛、援助を約束するブリュッセル条約を同年3月に締結した。ブリュッセル条約において主導的立場にあったのはイギリスとフランスであったが、両国の戦略には大きな確執があり、フランスはイギリスに対して次第に失望するようになっていく。イギリスは、ソ連による西欧侵攻を防ぐのは現実的に不可能と考えており、ソ連が実際に西欧へ侵攻してくれば大陸への陸軍増派は行わず、英仏海峡を要塞線としてイギリス本土から(アメリカやカナダの支援が到着するまで)空軍力でソ連に対抗する戦略を持っていた。これに対してフランスは、エルベ川、次いでライン川での遅滞作戦を主張し、欧州戦域をスカンジナビアから地中海まで拡大することを望んだ上で、イギリスに対して大陸への陸軍派遣を強く要請していた。ソ連軍の攻撃に対して行える遅滞作戦は二週間から三週間が限界で、その後はフランス本土での決戦が不可避と考えていたフランスにとって、イギリスの戦略は事実上自国を見捨てるようなものだったのである。イギリスに失望したフランスはアメリカに対し、西欧諸国の共産化を防ぐため、マーシャル・プランのような形で政治的、軍事的にアメリカが西欧諸国を支援することを求める覚書を数回提出した。ブリュッセル条約は調印直後から実質的な意味を失いつつあったが、フランスは同条約を西欧諸国が防衛のための自助努力を行っていることをアメリカにアピールする材料としたのであった。

 1949年4月、アメリカ(とカナダ)をヨーロッパに引き込む形の集団安全保障機構、北大西洋条約機構(NATO)が成立した。加盟国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、そしてソ連領土を攻撃可能な爆撃機の性能や、大西洋と北極海での防衛の観点からノルウェーデンマークアイスランドポルトガルの戦略的役割を重視したアメリカの意向によって、これらの国々も原加盟国となっている。なおイギリスは、地中海に面するイタリアをNATOに加盟させることに消極的であったが、フランスは先の大戦の経験から欧州戦域における前線を出来る限り東方に置き、そして地中海の防衛負担を軽減するためにイタリアの加盟を強く支持した。イタリア国内では米ソ双方からの中立を訴える動きや、議会外での左派勢力と警官隊の衝突などがあったが、両院ともに賛成可決され、イタリアも無事にNATO加盟を果たしている。第四共和制の首脳陣はNATOの成立を大いに歓迎した。思えば戦間期にフランスが再三主張していたアメリカ、イギリスを含める形の安全保障体制の構築がようやく実現したのである。戦後復興が進みつつあったフランスにとって、圧倒的な軍事力を持つアメリカの援助が得られることは喜ばしいことであった。欧州統合のスタートと言われる欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の成立に尽力したロベール・シューマン外相は、NATO成立に対して次のように述べている。

「両大戦間において我々が期待していたが叶えられなかったことがいよいよ実現した。米国はとうとう、ヨーロッパが危険にさらされれば、米国にとっての平和と安全もないのだということを認識するに至ったのである」(『フランスの外交力』より引用)

 戦後発足した第四共和制は親米外交に傾倒していくが、この中で大きな役割を果たしたのはジョルジュ・ビドーであった。歴史学の教員、キリスト教民主主義者であったビドーは、大戦中はレジスタンス運動に参加し、国内レジスタンス運動の統一組織である全国抵抗評議会の委員長を務めている。ドゴールが臨時政府首班となっていた時に外相に指名され、第四共和制発足後はフランスとアメリカの協力関係を強化することに尽力した。自らが首相を務めた1950年3月には、アメリカと相互防衛援助協定を締結している。ビドーの親米外交はその後も第四共和制の中心となり、1950年10月にルネ・プレヴァン首相は財政が十分でないにもかかわらず、アメリカが要求する西欧諸国の防衛強化のため、1953年までに陸軍師団20個を新設する大規模な軍事予算を組んだ。また、フランス国内にはアメリカの空軍基地が新設され、アメリカと折半する形で燃料パイプライン、港湾施設の建設を行うなど、フランスは他の西欧諸国と同様、防衛面でアメリカに大きく依存することになった。

 ただ、朝鮮戦争の勃発によって、欧州でも同様の自体が起こりうることを想定したアメリカが西ドイツの再軍備を求めたときには、その必要性を認識しながらも安易に認めない姿勢をフランスは示した。戦争の記憶が未だ消えない中、西ドイツが再軍備することは国民に到底受け入れられないというのがその理由であったが、フランスが一人再軍備に反対し続けるのは西欧の中で孤立を招く恐れがあった。そこでフランスは、ECSCと同じく、欧州統合に関連付ける形で欧州防衛共同体(EDC)という防衛機構を新たに設立し、その中でドイツの再軍備を行うという妥協案を1950年10月に発表した。プレヴァン・プランとも言われるEDCは1952年5月に調印されたが、批准の段階で大きな論争が起こった。共産党はEDCが反ソ的であると主張し、ドゴールが設立したRPF(フランス人民連合)はEDCのような欧州軍創設がフランスの国家主権を侵害するものとして強く反対したのである。先に述べたように、第四共和制はアメリカ(とNATO)に大きく依存していたが、フランス国内に外国人が指揮する司令部が置かれ、フランス人が立ち入りできない区域(米軍基地)ができたことは自尊心が高いフランス人の感情を強く刺激していた。また、当時アメリカはECSCのような欧州統合を強く後押しており、EDCのような欧州統合のさらなる深化はアメリカへの従属を促すものと見なす動きが存在していたのである。最終的に1954年8月、マンデスフランス首相のもと行われた討議でEDC批准の採択は否決された。他国を散々待たせた挙げ句、提唱者自らその案を拒絶するという失態をフランスは犯したが、この混乱の解決に尽力したのはイギリス(のイーデン外相)であった。同年10月、西ドイツの主権回復とNATO加盟(と条件付きの再軍備)を承認した協定がパリで締結されたことで、アメリカが求めた西ドイツ再軍備が認められることになった。なお翌1955年5月5日、この協定は西ドイツの議会で発効されたが、ソ連と東欧諸国はこれに強く反発し、9日後の5月14日にNATOを仮想敵とする、ソ連を中心とした軍事同盟であるワルシャワ条約機構(WTO)を成立させている。

 話を戻すが、ここでNATO成立直後のフランス海軍の状況を見てみよう。最大の水上艦は大戦を生き延びた戦艦『リシュリュー』で、また2番艦の『ジャン・バールJean Beart』が戦後大規模な設計変更の上で1950年に竣工している。航空母艦については、大戦中にイギリスから手に入れた護衛空母『ディクスミュードDixmude』、1946年8月にイギリスから5年間という条件付きで貸与(貸与期限終了とともに購入)された『アロマンシュArromanches』(旧『コロッサスColossus』)、そして先述した相互防衛援助協定によってアメリカから『インディペンデンスIndependence』級軽空母2隻を入手し、それぞれ『ラ・ファイエットLa Fayette』(1950年)『ボア・ベローBois Belleau』(1953年)として保有した。フランスは戦後長い時間をかけて『ジャン・バール』を竣工させたが、ソ連の戦艦整備に備えるという表向きの理由はあってもどちらかと言えば艦隊の象徴的な面が強かった。戦後の海軍再建にあたって、空母が重要な艦種であることはフランス海軍もよく理解しており、1947年には満載排水量20,000t、速力32kt、搭載数45機と『アロマンシュ』とほぼ同規模の新空母『PA28』を水上艦隊の上空援護や対潜水艦作戦用に計画している。議会で一度可決された『PA28』であったが、戦後復興の中でこのような大型艦のための資材供給は困難であったため工事開始は遅々として進まなかった。結局、相互防衛援助協定によってアメリカから空母を入手可能となった1950年に開発予定の艦上機と共にその計画を放棄されてしまったのである。艦隊に編入された『アロマンシュ』や『ラ・ファイエット』、『ボア・ベロー』は、すぐさま戦艦に代わる海軍戦力の中核、そして象徴的存在となったが、フランス海軍は自らの象徴的存在がアメリカとイギリスの中古品という不愉快な現実から目を背けなければならなかった。

 次に、巡洋艦駆逐艦護衛艦などの軽艦艇については、国産のものは戦間期に建造したものが幾つか残っているのみで、大戦中にアメリカやイギリスから貸与、あるいはドイツやイタリアから戦後賠償艦として手に入れたものが数を多く占めている。搭載している主砲の口径は上から203mm、155mm、152mm、150mm、138.6mm、135mm、127mm、120mm、105mm、102mm、100mmなど国際兵器見本市の様相を呈しており、フランス海軍は可能な限り砲を始めとした装備を統一するところから始める必要があった。

 最後に潜水艦だが、フランス海軍は戦後、ドイツから賠償艦としてⅦC型2隻、ⅨB型1隻、ⅨC型1隻、XXI型1隻の計5隻の潜水艦を取得した。いずれも戦争中に建造された潜水艦だが、この中で最も大きな収穫はXXI型(U2518→『ロラン・モリロRolland Morillot』)であった。XXI型潜水艦は、連合軍の対潜作戦によって大西洋における潜水艦の損害が看過できない状況に陥ったドイツが開発した水中高速潜水艦である。同型は1944年以降建造され、当時の潜水艦の水中速力が平均8~10ktの中で、17.5ktという高い水中速力を有していた。また、溶接とブロック工法を多用した設計で量産性も高く、終戦までに120隻が建造されている。慣熟訓練中に技術的な問題が発覚するなど、戦争末期における製造だけあってほとんどの艦が完全な戦列化はできなかったが、本型が第二次世界大戦時における最良の潜水艦であるのは疑いようがなく、ドイツの高い潜水艦技術をほぼそのままの形で手に入れる事ができたのはフランス海軍にとって非常に有益であった。

 NATO加盟国の中ではアメリカ、イギリスに次ぐ海軍戦力を有していたフランスであったが、上述したようにそのほとんどが米英からの貸与、あるいは譲渡された艦で構成されていた。NATOにおけるフランス海軍の役割は、西地中海および大西洋における海上航路の防衛であり、フランス海軍は一刻も早い艦隊再建を望んでいたものの、戦後フランスにとっての最優先事項は経済復興であったため、多額の予算が必要となる建艦計画は後回しとならざるを得なかった。また、フランス海軍の再建を阻む要素は国内の経済問題だけではなかった。この頃、第三共和制期に「文明化の使命」のもと拡張を続けた海外植民地では現地民による独立運動が激化しており、フランスはこの地域に軍隊と資金を多く投入していたのである。

 

9-4. 植民地の独立運動とフランス海軍

 戦後、第四共和制は「フランス連合」という形で自国植民地の再編を試みていた。このフランス連合はフランス本国、フランス連合参加国(旧保護国)、フランス連合参加領土(旧国際連盟委任統治領)、旧植民地の海外県および海外領土の五つで構成されていた。フランス連合の大統領はフランス大統領であり、フランス政府と連合参加国代表によって構成されるフランス連合高等評議会と、フランス政府と連合参加国、海外県、海外領土の代表によるフランス連合議会が大統領の諮問機関として設立されている。ただし、実際にはフランス連合における決定はフランス政府がほとんど行っており、多少の改善点を除けば第三共和制期となんら変わりはなかった。イギリスの第三勢力構想(ヨーロッパとヨーロッパ諸国が持つ植民地を、米ソという超大国に対抗するための巨大なブロック=第三勢力として再編し、その中でイギリスが主導権を握る)に注意を払うフランスにとって、植民地は依然として重要なものであり、その運営は本国が行うのが当然とする思想が支配的であった。また、「文明化という使命」のもと、長年植民活動を行ってきたフランス国内では、植民地とその現地住民に対して、家父長的な温情が芽生えていたのである。

 フランスは「文明化という使命」の名のもとに植民地事業を進めたと今まで何度も書いてきたが、そもそもフランスが言う「文明化」とは何なのだろうか。フランス共和国の標語は周知の通り、「自由・平等・博愛」である(フランス革命期のあるポスターではこの後に「然らずんば死を!」の文が続く)。標語というのは、往々にして自分や所属する集団に備わっていない(備えたいと願っている)ものを示すものであるが、それはともかく、フランスが植民地事業を進めるにあたって重視したのは「博愛」の精神であった。民主主義国家が永遠に抱える課題である「自由・平等」と比べると、「博愛」は少し想像しにくい。簡潔に説明すると「博愛の精神を広げることによって、他者との間にある憎しみを消し去って不毛な争いを無くし、人種や国籍といった壁を乗り越えて民衆(人類)の団結を促す」といったことになるだろうか。かつてヨーロッパと地中海沿岸部のほとんどを支配したローマは、(武力も用いた)積極的な植民活動をすることでその勢力を拡大したが、同時に他地域の民族や文化と接触することでその影響をローマ自身が受けてしまい、徐々に文化的精神が衰えていき、ついには分裂に至ったとする見方が存在していた。

 第三共和制期、植民地事業を進める中でフランス政府はローマと同様の結果になることを警戒していたが、その上で「博愛」の精神が用いられたのである。人類は皆兄弟であり、地球という財産は人類全体で共有していくものであるが、残念なことに狂王に虐げられている兄弟や、土地を耕す術を知らず、飢餓に苦しむ兄弟が不幸にも存在する。そんな「後れている」兄弟に対して、「博愛」の精神を持って救いの手を差し伸べる(文明化)のがフランスであり、そうして救われた兄弟はフランスとともに人類発展のための団結に取り組むことが可能である。そうした活動の中、両者の間に生まれるのは愛情と信頼であり、憎しみも文化的な衝突も存在せず、ローマが陥った他地域による本国の揺れ戻しもない。フランスが唱える「文明化」とはこういったものだ。

 フランスが唱えた「文明化」は、自らが優越した立場にあることを前提とした、極端な善意の押し付けと自己正当化である。しかし、こうした考えを本当に悪意がなく信じていたフランス人がいたのは紛れもない事実であった。彼らにとって不幸だったのは、自分たちが海を渡ってやってきた余所者だという認識が最後まで希薄だったことである。フランス革命後、数多くの混乱の中で誕生した第三共和制とその指導者は、王政や独裁などの復活を常に警戒しなければならない中、自らの正統性を主張するためにも共和国の理念に沿った植民地事業を推進した。海外の植民地は、国際的な威信回復や経済的利益のための場だけでなく、「共和国」という理念と、その正統性を実証するための実験場でもあったのである。フランス国民にとって、植民地との関係は維持されるのが当然と認識されていた。

 しかし現実には、植民地では独立運動が激化していた。日本降伏後の1945年9月、ホーチミンによってベトナム民主共和国が成立していたが、これに対するフランスの対応は矛盾していた。1946年3月、フランスはベトナム民主共和国を承認する協定を締結し、フランス連合内でのある程度の自治を認めていたが、同年6月にはダルジャンリュー提督がフランスに従属するコーチシナ(ベトナム南部)共和国の設立をサイゴンで宣言した。ベトナムを含めたこの地域はフランス領インドシナと呼ばれるが、その多くは保護国保護領から成り立っており、コーチシナはかつてフランス海軍がその獲得を支持した、同地域にある数少ない直轄植民地であった。7月に行われた会談は最終的に決裂し、11月にフランスはハイフォン港を攻撃して数千人の犠牲者を出した。この報復として翌月にはハノイで現地民によるフランス人大量虐殺が発生し、ついにフランス軍ベトナム軍(以下ベトミン)は本格的な戦闘状態に入った。

 戦闘が本格化する前から、フランス海軍は同地域への展開を始めていた。ベトミンによって道路は破壊、あるいは閉塞されていたので、網の目のような水路を利用するしか道がなく、フランス海軍は治安維持のための兵力派遣と同時に、アメリカが大戦中に使用していた小型揚陸艇を同地域に運び入れていた。戦間期に建造されたフランス唯一の空母であり、大戦中に航空機輸送艦に改造されていた『ベアルン』は早くも1945年12月には兵員と揚陸艇を搭載してベトナム南部一体の制圧に取り組んでいる。各地の制圧は容易ではなく、1946年12月には陸戦支援、偵察、輸送を目的に、各所に防弾板を張り巡らし、砲や機関銃を搭載した小型艇を用いる「河川突撃隊」とでも言うべき特別部隊が新設された。これらは主に湿地帯に積極的に投入され、ベトミンとの戦いで有効な働きをしている。

 これとは別に、ベトミン占領地奪還のために数少ない巡洋艦駆逐艦が派遣され、艦砲射撃によって上陸作戦を支援した。また、戦後は復員輸送やベトナムへの弾薬運搬などを行っていた『ディクスミュード』も、上陸作戦支援のため艦上機(アメリカから供与された旧式のSBDドーントレス)による空爆を実施している。『ディクスミュード』は元々が低性能の護衛空母であり、その活動にも限界があったが、長く上陸作戦の支援と航空機輸送を遂行した。イギリスから貸与された『アロマンシュ』が現地に到着すると主要任務は同艦へと移り、1954年までに計四回同地域に派遣された。また、アメリカから入手した『ラ・ファイエット』『ボア・ベロー』も同地域に派遣されてフランス陸海軍の支援やヴェトナム軍補給路攻撃などに参加している。

 しかし、虎の子の空母を全力で投入しても戦況は徐々にフランス側に不利となっていく。1949年に誕生した中華人民共和国ベトナム民主共和国への援助を開始すると、フランスはアメリカに対して支援を仰ぎ、アメリカも共産国の増大を防ぐためにフランスへの支援を開始するなど、インドシナにおける独立戦争国際紛争となりつつあったが、ゲリラ戦を展開するベトミンにフランス軍は長く苦しめられていた。また、次第にベトミン側も砲兵力を増大させるなど正規戦を行うようになり、フランス側の損耗は増大していったのである。インドシナ戦争は戦後間もないフランス軍の弱体化を招いていた。フランス本国軍の充足率は80%に低下し、1951年にはNATOへ差し出すべき兵力まで削減してインドシナへの増派を行っていたのである。同時期に行われた参謀長会議では、フランス軍はあらゆる分野に対応する能力(ヨーロッパと植民地両方への兵力展開)をもはや有しておらず、政府は優先順位をつけなければならないと警告していたが、ヨーロッパと植民地の間でバランスを取るのは困難だった。

 1954年5月、フランス軍の主要拠点であったディエンビエンフーがベトミンの猛攻によって陥落したのが決定的となり、フランスは和解に向かうことになる。翌月、インドシナ戦争の早期終結を掲げて首相となったピエール・マンデスフランスはベトナムに強い影響力を持つ中国の周恩来と会見を行った。中国は自国周辺からアメリカの影響力を取り除くことに最大の関心を払っており、南北ベトナムの統一に対してはそこまで積極的ではなく、この仏中接近は事態の緊張緩和に大きく寄与した。7月、ソ連、フランス、中国、イギリスによる交渉がジュネーブで開始され、ベトナムをベトミンの北ヴェトナム政府と、非共産主義系の南ベトナム政府によって南北に分断することが確認された。このあともベトナム、加えて旧フランス領インドシナに属していた国々では内戦などが相次ぐが、「インドシナ」はフランスにとって過去のものでしかなくなっている。

 植民地の独立運動は東南アジアだけでなく、地中海の対岸にある北アフリカでも活発であった。まずチュニジアではハビブ・ブルギバ率いる民族解放勢力がフランスに対して完全自治を要求し、1952年には国連に提訴していたが、これに対してフランスは厳しい弾圧措置をとった。また、モロッコではスルタン・モハメット5世の支持を得た独立運動が活発化していたが、モロッコ総督は1953年にモハメット5世を退位させ、マダガスカルに追放する措置をとった。これはフランス政府の決定ではなく海外に置かれた出先機関の独断専行であり、これをインドシナ戦争において最後までヴェトナムの独立を許さなかったビドーが追認したことは本国政府の権威失墜を示す象徴的なものであった。インドシナ問題を解決したマンデスフランスはこれらの解放勢力に対して、自治を約束することを前提としてフランスが対話をする準備があることを伝えた。マンデスフランスは1954年7月、カルタゴに飛んで解放勢力と交渉を行い、自治権の付与と一定期限後の独立を約束し、交渉のための代表組織設立を受け入れている。1955年6月、後任のエドガー・フォール首相はフランス・チュニジア協定を締結し、1956年3月にギ・モレ首相はチュニジアの完全独立を認めた。また、モロッコも同様の経過を辿って1956年3月に完全独立を果たしている。

 しかし、モロッコチュニジアに挟まれたアルジェリアの独立は簡単に認められなかった。1945年4月に起きた暴動が激しく弾圧されたあと、1947年には「アルジェリア組織法」に基づく議会が開設されたが、ヨーロッパ系住民が有利となる組織体系となっていたことからアルジェリア人の不満は解消されず、独立運動が激化していた。フランスにとってアルジェリアは「一にして不可分な共和国フランス」を構成する一部(アルジェリアだけ内務省の管轄で、行政制度としての県も設けられていた)であり、ヴェトナムやチュニジア、モロッコの独立を認める姿勢を示したマンデスフランスもこの点では妥協しなかった。マンデスフランスは「彼ら(アルジェリア人)はずっと以前からフランス人であり、アルジェリアとフランス本国の分離は考えられない」と述べている。また、1947年にアルジェリア民族解放勢力の指導者の一人であるフェルハト・アッバースが、(フランスと連邦を構成する)アルジェリア共和国という案をフランス大統領ヴァンサン・オリオールへ提示したとき、オリオールは次のように回答した。

「あなた方は一度として国家であったことはありませんが、私達はアルジェリアを(オスマン帝国の)隷従から解放しました。今日フランスとの一体性を解消したいと思っている人々を含め、あなた方アルジェリア人はフランスの乳と文化から糧を得ているのです。フランスなくして、あなた方に何ができるというのですか。何を望んでいるというのですか」(『植民地共和国フランス』より引用)

 「フランスのアルジェリア」は国民の共通認識だったが、マンデスフランスも徐々に政策を転換させる必要を感じ、ドゴールに忠実ではあるが植民地に対して自分たちと同じ左派的認識を持っていると見られていたジャック・スーステルを新たに総督に指名し、アルジェリアの近代化、教育の発展を含めた宥和的な政策を取ろうとした。しかし、このマンデスフランスのアルジェリア政策転換は議会内で激しい反発を生み出し、1955年2月の信任投票でマンデスフランス内閣は倒閣の憂き目にあった。アルジェリアにおける独立運動FLN(民族解放戦線)のもとで次第に広がっていたが、1955年8月にはフランス人71人を含めた123人のヨーロッパ人が虐殺される事件が起きた。FLNに対するフランスの報復は残酷なもので、FLNによれば12,000人(フランス側の発表では2,000人)のアルジェリア人が犠牲になっている。この厳しい弾圧によって、当初人気がなかったスーステルは一躍ヨーロッパ入植者から「フランスのアルジェリアを守るヒーロー」として評価されるようになった。このあともフランスとFLNの激しい戦闘は続くことになる。

 フランスはFLNとの対話を幾度か試みたがいずれも失敗に終わり、厳しい弾圧措置をとり続けた。この頃、フランス政府内では、民族主義者であるエジプトのナセル首相がアルジェリアの暴動を煽っていると考えており、FLNを説得するためにはその支援者たるエジプトを叩くことが必要という思想が広がっていた。1956年7月、イギリスとフランスの利権が絡むスエズ運河をエジプトが国有化したことに両国は抗議し、パレスチナ問題でエジプトと争っていたイスラエルを招く形でエジプトへの軍事侵攻を計画した。10月、イスラエル軍シナイ半島に侵攻し、エジプト軍を敗退させると、英仏は両軍に対して運河地帯の安全のために即時徹兵を要求し、指示に従わない場合は安全確保のために同地帯を占領するという最後通牒を送った。イスラエルは事前の交渉通りに撤兵したが、エジプトはこれに応じなかった。国連安保理による調停が求められたものの、英仏が拒否権を行使したために不発に終わっている。

 フランス議会は政府のエジプト侵攻を大多数の決議をもって可決し、11月に英仏はエジプトへの軍事行動を開始した。いわゆるスエズ動乱である。英仏空軍機によって早々にエジプト側の航空機は破壊され、パラシュート部隊によってスエズ運河は占拠された。フランス海軍は戦艦『ジャン・バール』、空母『アロマンシュ』『ラ・ファイエット』を中心とする艦隊を派遣し、イギリス艦隊と共に上陸作戦の支援にあたっている。作戦は順調に進み、エジプトの降伏は間近と思われたが、アメリカのアイゼンハワー大統領が英仏の軍事行動に強く反対を示し、またソ連フルシチョフが核による恐喝を試みるなどして英仏(とイスラエル)は完全に孤立した。結果的に両国は停戦を受け入れざるを得ず、フランスは国連からエジプト侵攻とアルジェリア政策を厳しく非難された。インドシナ戦争スエズ動乱、そしてアルジェリア政策によって軍の権威は失墜しつつあったが、これらの戦闘でフランス海軍は兵力の遠方展開に関するノウハウを習得し、第二次世界大戦中にはまともに運用することができなかった航空母艦揚陸艦艇の実用性と有効性を自らの手で確認することができた。

 

9-5. 第四共和制の崩壊

 1956年以後、毎年の国際連合総会でフランスはアルジェリア政策を非難され、国際社会において苦しい立場に置かれていた。独立を果たしたチュニジアとモロッコFLNを公然と支持し、アルジェリア独立戦争は激しくなっていた。アルジェリアは治安維持を遂行し続けていた軍部が権力を握る「軍事県」の様相を呈しており、インドシナ戦争を経験した将校たちは「今度は上手くやって」FLNから現地の支配権を奪取できると確信していた。議会はアルジェリアを巡って政府だけでなく各政党が分裂状態にあり、無力を露呈するしか無かった。また、FLNによるアルジェリア解放を支持する人や、「フランスのアルジェリア」を防衛するためには現在の無力な政府をクーデタによって打倒するしかないと考える人など、国内世論も分裂していた。

 1957年秋にはフランス軍による治安維持活動は概ね成功していたものの、1958年2月に起きたフランス空軍によるチュニジアのサキエト村爆撃は事態を悪化させた。この国境沿いの村にはFLNのキャンプがあり、空爆はその破壊を目的としたものだったが、21人の子供を含む69人が犠牲になり、今まで親仏的であったチュニジアも態度を転換してこの事件を国連に訴えた。フランスはアメリカとイギリスによる調停使節団を受け入れなければならなかったが、これがアメリカの圧力に屈したと批難され、挙国一致内閣として組閣されていたフェリックス・ガイヤール内閣は4月に倒閣した。一ヶ月間の文字通りの無政府状態の後、ピエール・フリムランが首相候補に選ばれたが、アルジェリアは不穏な空気に包まれていた。5月9日、FLNによるフランス兵捕虜処刑の知らせを受けたアルジェリア駐留軍司令官サラン将軍は、政府に対して「軍はアルジェリアの放棄を屈辱と感じ、その絶望への反応は予想できないものとなるだろう」との最後通牒を送った。5月13日、フリムラン政府の議会承認予定日に、アルジェリアの現地当局は「フランスのアルジェリア」を支持する反政府組織に占拠され、治安維持責任者のマシュー将軍とサラン将軍によって現地の入植者と軍人で構成される「公安委員会」が設立された。

 翌日成立したフリムラン内閣であったが、この内閣にもはや権威はなく、軍隊も警察も完全に掌握されていなかった。5月15日、マシュー将軍の説得を受けたサラン将軍が、政界から去っていたドゴールを支持する演説を行い、ドゴールもこれに自らが共和国の権力に就く意志があると回答していたが、政界の混乱は治まらなかった。この頃、クーデタによる軍事独裁政権の誕生を阻むためにドゴールの政権復帰を望む声が出てきており、ドゴールも祖国が麻痺状態に陥っていることを憂いていたが、確固たる支持がなければ政界に戻るべきではないと彼は考えていた。この間、24日にはアルジェリア駐留軍のパラシュート部隊がコルシカ島を占拠し、本土侵攻作戦(「復活」作戦)を計画していることが明らかになった。本国内の将軍もこれに対して支持を与えるなど、大多数の国民が内戦勃発は不可避であると考えるようになっており、パリ周辺は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。

 アルジェリアに対するドゴールの態度は曖昧なものであったが、フランス国民にとってドゴールは、麻痺した共和国を救い、内戦を回避できる唯一の人物と見られていた。フリムランが辞職した翌日の29日、ルネ・コティ大統領はドゴールを首相として指名することを表明した。6月1日に行われた投票で信任されたドゴールは首相の座に就き、半年間の全権掌握を認められ、かねてから検討していた新憲法制定に取り組むことになった。アルジェリア駐留軍は「復活」作戦の決行を中止し、サランらの公安委員会もこの事態を受け入れたことで内戦の危機は回避されたのである。

 第四共和制最後の首相となるドゴールによる新憲法制定作業は迅速に進められた。ドゴール内閣は各政党から選ばれた議員と高級官僚によって構成されており、議会万能主義の第四共和制と何ら変わらないものとして失望する者もあったが、これは体裁を繕うために過ぎず、憲法制定作業は閣僚ではなくドゴールが選んだ議員や顧問、各専門家によって行われた。1958年9月、ドゴールの信任投票も兼ねる形で新憲法の草案が国民投票にかけられ、約八割の支持を得て承認された。承認された憲法第五共和制憲法として10月5日に公布され、新しい共和国がスタートした。第四共和制を崩壊させたアルジェリア問題については、第五共和制成立後も独立を巡って長く争いがあったものの、1962年のエヴィアン協定によってついにアルジェリアの独立が認められることとなった。第四共和制は、第三共和制が残した植民地帝国を清算する形でついに終焉を迎えたのである。

 

次回は「冷戦とフランス海軍─第五共和制の成立と冷戦─」です。

 

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