フランス海軍通史 第八回:第三共和制―夢幻の安全保障―

前回(第七回:第三共和制ー共和国的な海軍ー)の続きです。

 

 

8-1. 偉大なる植民地

 フランスは、第一次世界大戦で140万人近い若者を失い、北部の主要工業地域や農村を破壊された。民衆はようやく訪れた平和に歓喜し、戦後復興に取り組んでいたが、この大戦では戦前フランスが「文明化という使命」のもと獲得してきた植民地が、共和国のために役立つ偉大なものであることが確認された。戦争中、植民地からは約60万人の兵士と約20万人の労働者が動員され、前線や工場へ送られた。ギニアコンゴにあるゴムなどの資源は、自動車や航空機など大戦中に使われた兵器を生産するのに重要な役割を果たした。加えて、フランス人の日常生活という面から見ても植民地はすでに必要不可欠な存在となっていた。植民地の特産品であるコーヒー、紅茶、香辛料、落花生、果物、コメなどの食料品、そして高級木材、リン鉱石などの天然資源は、フランス人が日常生活を送るための必需品となっていたのである。また、フランスの対外貿易は、戦間期を通じてイギリス、ドイツ、ベネルクスがその輸出、輸入額の大半を占めていたが、戦争によって生産能力が向上した国内企業の販路としても海外植民地は重要であった。そして、フランス本土とは環境が全く異なる、未知で未開の地の開拓は、海洋学、植物学、動物学、鉱物学、医学、農学と様々な学問の発展を促していた。戦後、植民地があらゆる面でフランスに貢献していることを確認したフランス国民は、そのような偉大な植民地を保有している自国を誇りに感じていたのである。

 

8-2. 新たな仮想敵

 さて、戦後フランスにとって最大かつ明確な脅威は、将来的に復讐を企てるドイツである。そのためフランスは、ヴェルサイユ条約によるドイツ弱体化、新たに設立された国際連盟下の安全保障、そしてオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊によって誕生した東欧諸国との軍事同盟締結、と考えられるだけの安全保障政策を打ち立てた。しかし、フランスによるドイツへの過酷な処置にはイギリスもアメリカもおおよそ否定的であった。また、東欧諸国、例えばポーランドとの軍事同盟はドイツを二正面作戦に追いやることでその攻撃力を分散させようとするものだったが、フランスの軍事力がポーランドを支援するほどに十分なものであるかは疑問符がついた。「マジノ線」と言われる要塞群をドイツとの国境沿いに建設したように、戦後フランス陸軍の戦略は極めて守勢的なものであったからである。もちろん、攻勢的な軍備の主張がフランス陸軍内部に一切なかったわけではなく、例えばシャルル・ドゴールは、著書『職業軍を目指して』の中で、志願兵で構成される攻勢的な機甲師団を新設することを提唱していたが、彼の主張に賛同を示すのは少数であった。ドゴールが、著書『剣の刃』の中で、戦後フランスに蔓延している平和主義と、民衆の軍隊への拒絶反応に怒りと不安を顕にしているように、フランス国民の大多数は守勢的な軍備を要求しており、フランス陸軍の軍備は、同盟国が侵攻されたときに救援に向かえるような体制ではなかった。上記のような、数多くの安全保障政策を実施する上で、フランスは先述した偉大な植民地の維持と活用、そして東欧諸国との連携強化を考えなければならなかったが、そうなると問題になるのがイタリアであった。

 地中海の真ん中に位置するイタリアは、長年の宿敵オーストリアハンガリーが大戦によって崩壊したことで、アフリカ植民地を巡って戦後イギリスやフランスと競合する関係にあった。もしフランスがドイツと再び戦争になったとき、フランスと北アフリカ植民地を繋ぐ海上航路を破壊するのに適した位置にあるイタリアが敵に回ってしまうと、東欧諸国とアフリカ植民地の連携は難しくなってしまう。また、イタリアが敵になれば、対ドイツ侵攻用の部隊を北東部に配置するのに加えて、仏伊国境のアルプス方面にも部隊を配備し、さらに北アフリカ植民地に隣接するイタリアのアフリカ植民地(リビア)からの攻撃にも備えなければならない。逆に、もしイタリアが味方であり、ドイツと戦争するときに共闘することが可能なら、フランスの遠征軍はイタリアの鉄道を使用して三週間でドナウ川に到達することができ、東欧諸国を支援するのにも陸路と海路どちらも使用することができる。ドイツ側の戦略を複雑にし、フランスの防衛戦略を強化するためにも、軍部はイタリアとの同盟をたびたび主張していたが、戦後イタリアの動きが予測不能であったこともあり、これは実現が難しかった。ドイツとの将来の戦争で、フランスが長期戦に備えるためにも北アフリカ植民地の防衛は絶対に必要であり、それを実行するフランス海軍にとって、当面の脅威はイタリア海軍となったのである。

 

8-3. ワシントン軍縮会議

 ドイツとオーストリアハンガリーから得た賠償艦で編成された艦隊が最も近代的なもの、という状態にあったフランス海軍は再建に取り組むにあたって、まず国際的な障壁を乗り越える必要があった。1921年アメリカのヒューズ国務長官主導で開催されたワシントン軍縮会議である。ヒューズ国務長官の最大の目標は、英米日の主力艦の保有比率を5:5:3とすることにあった。会議開催後、アメリカ、イギリス、日本は、フランスとイタリアを除く形で秘密交渉を行い、詳細な取り決めが必要であることを確認した上で三カ国の主力艦保有比率について概ね合意した。アメリカは、この三カ国の保有比率に基づいた軍縮案をフランス(とイタリア)に示したが、三カ国のみで主力艦保有比率を先に決定し、それを何の悪びれもなく提示するアメリカに対してフランス代表は怒りを顕にした。アングロサクソンの不誠実な軍縮案に対してフランス代表は、フランスはイギリスに次ぐ植民地帝国を有しており、それを維持するために相応の海軍力を有する当然の権利があると強く主張した。具体的には、主力艦の保有比率を日本と同等程度のものとし、潜水艦については英米と同一、そして1925年以降の十年間にフランスが35,000t級の戦艦を10隻(!)建造できる権利を要求したのである。自分たちが提示する軍縮案をフランスが当然了承すると考えていたヒューズは、このフランス代表の要求に驚嘆した。もしフランスの要求を飲み込めば、英米日の主力艦保有比率が変更されることは確実であり、そうなれば日本が先の合意を覆す可能性もある。また、フランスの要求は、地中海における戦力の均衡を崩しかねないものであったため、イギリスやイタリアが強く反対した。他国の代表と比べ、外交経験が乏しかったヒューズはこの事態に狼狽し、帰国の途についていたフランスのブリアン首相へ、他のフランス代表を差し置く形で直接交渉を行った。ヒューズは、比率決定は現有戦力を考慮して行っており、それに沿えばフランスの保有枠は本来もっと少なくなるが、戦争中に戦艦建造を中断し、戦後保有していた旧式戦艦の数多くを廃棄したフランスの事情を考慮して、175,000tという保有枠(アメリカ、イギリスは525,000t)が保障されることを再度説明し、フランスが主張する軍備の再考を求めた。この必死の説得を受けたブリアンは、主力艦の保有比率を巡洋艦駆逐艦などの補助艦に適用せず、新たな協議の場を設けることを条件としてアメリカの提案を受け入れた。

 こうして、主力艦の保有比率はなんとか合意が得られたが、新たに協議が始まった補助艦の比率決定は難航した。「非武装の商船に対してのみ暴力を振るう潜水艦は人道に反している」として、その全廃か、保有制限を厳しくするべきと主張するイギリスに対し、主力艦が少ない海軍(アメリカやイギリスに譲歩した自国海軍)には沿岸防御のために潜水艦が絶対必要、とフランス(やイタリア)は猛烈に反対した。また、主力艦はともかく、巡洋艦保有量がアメリカと対等になることを望んでいなかったイギリスは、自国の主張する潜水艦協定にフランスが猛烈に反対したことを逆手に取って巡洋艦協定を不成立へと向かわせ、その責任をフランスに擦り付けてアメリカの不満の矛先を逸らすことに成功した。最終的に、巡洋艦駆逐艦、潜水艦などの補助艦については、排水量や主砲口径を定める質的制限が成立したものの、量的制限については各国間で合意が得られなかった。長い交渉の末、1922年2月に主力艦の質的・量的制限を中心としたワシントン海軍軍縮条約が締結された。

 なお、このワシントン軍縮会議では、海軍だけでなく陸軍の軍備制限についても会議が開かれたが、元々ワシントン会議は各国の海軍力を調整するのが主目的であったため、主導したアメリカを含め、参加した国々に陸軍軍縮に関する具体案はなかった。そのため、陸軍軍縮会議は、各国が自国陸軍の事情を順次説明する講演会のようなものになったが、ブリアンはフランス陸軍について長い時間をかけて熱弁を振るった。その内容は、ドイツはヴェルサイユ条約によってその軍備を制限されているが、物質的にも精神的にもその軍備制限が徹底しているとは言えず、将来再興するであろうドイツは強力な陸軍を迅速に整備することが可能であり、フランス陸軍はそのドイツ陸軍に対抗するため、いかなる軍備制限も許容できない、というものであった。このブリアンの主張は、海軍軍縮交渉のときとは違い、大陸国家フランスの正当な主張として、他国から多くの賛同が得られている。この後、主要五カ国は陸軍軍備の制限に関する委員会を一応開いたが、フランス陸軍の軍備を他国が制限するのは(大陸国家である)自国の主権侵害であり、それを補完する安全保障体制も現状構築されていないとして、フランスが反対の立場を表明したため、陸軍軍縮に関する具体的な条約は締結されなかった。

 現実的に考えて、フランスが当初主張した巨大な軍備案は、経済面でも技術面でも実現するのが困難な内容であったと思われる。ヒューズの説得を受けたブリアンが、その提案を(やむなく)承諾したのは別に不自然な話ではない。しかし、フランスにとって偉大であるはずの植民地を防衛するフランス海軍の軍備を他国が制限し、文明化というフランスの高尚な理念と行動が阻害されるのは重大な主権侵害にはならないのだろうか。ワシントン会議にブリアンと共に参加した植民地大臣のアルベール・サローは、1931年に開催された国際植民地博覧会にあわせて、フランス植民地の偉大さと植民地事業に伴う矛盾を記した『植民地の偉大さと隷従』という本を出版しているが、軍縮会議の裏で行われている取引によってフランスが犠牲になっているとその中で述べている。フランスの長い歴史を振り返るまでもなく、その必要が迫られたときに最終的に選択されるのは、基本的に海洋ではなく大陸であった。

 

8-4. 海軍の再建

 初の本格的な軍縮会議という障壁を乗り越えたフランス海軍は、巡洋艦駆逐艦、潜水艦の保有枠を気にせずに海軍再建に取り組むことが可能となったが、戦艦と航空母艦保有枠をイタリアと同等にされたのは問題であった。ワシントン軍縮会議の交渉中、イタリアはフランスの保有量の八割ほど確保できれば上出来と考えていたが、補助艦協定をフランスが不成立へ向かわせたことに不満を抱くイギリスとアメリカの支援もあって、フランスと同等の保有枠を確保できていた。巡洋艦駆逐艦などの軽艦艇が制限されていない(主砲などの質的制限には同意)とはいえ、主力艦(特に戦艦)がイタリアと同等の保有枠しかないフランスは、地中海防衛のために海軍戦力の大部分を割かざるを得なくなってしまった。余談だが、軍縮条約の制限によって、大西洋を通ってサハラ以南のアフリカ植民地から資源を運ぶルートが(もしドイツやイギリスと将来的に戦争になったら)使用できなくなる、と考えたフランス軍部は、国内自動車メーカーのルノーシトロエンに対して、アフリカ植民地を縦断して素早く確実に資源を運ぶことが可能な自動車製作(ルノーは六輪自動車、シトロエンはハーフトラック)を依頼すると共に、移動ルートの確立へ急速に取り組んでいる。

 軍縮条約で認められた内容によれば、フランスは新たに戦艦建造が可能であったが戦後復興の中でそんな余裕はなく、十年ほど軽艦艇の整備に注力している。1922年度計画で『デュゲイ・トルーアンDuguay Trouin』級軽巡洋艦3隻、『シャカルChacal』級駆逐艦6隻などの建造が承認され、海軍の再建がスタートした。1924年度計画では20.3cm砲を搭載した『デュケーヌDuquesne』級2隻の建造が開始されている。仮想敵と見ていたイタリアも同様の艦種整備に取り組んでおり、両国の艦艇とも互いを意識した性能となっていた。イタリア海軍の同種艦の紹介はここでは省略するが、どれも魅力的な艦艇であるので是非とも調べることをお勧めしたい。

 航空母艦については、廃棄予定だったノルマンディ級戦艦のうち、最も工事が進んでいなかった『ベアルンBearn』を改造することが決定し、1927年に竣工した。『ベアルン』は元々が低速の戦艦であったため速力が遅く(21kt)、フランス海軍からもその実力を疑問視されていたが、横索式着艦制動装置などの先進的な装置を搭載していた。この装置は技術的に非常に優れたもので、のちに日本海軍も導入している。また、フランスは『ベアルン』を建造する傍ら、同艦の不十分な航空兵力を補うために1926年度計画で水上機母艦『コマンダン・テストCommandant Teste』の建造を承認した。同艦は排水量10,000t、速力20ktを発揮し、四基の射出機と大型の格納庫を備え、20機前後の水上機を運用することが可能な今までとは違うタイプの水上機母艦であった。フランスは、軍縮条約でイタリアと同じ空母保有枠を認められていたが、『ベアルン』が完成していないうちにこれに匹敵する高額な新型空母の計画が承認される見込みはなかった。第一次世界大戦中にイギリスの水上機が敵艦への雷撃に成功していたこと、そして戦後に大重量の水上雷爆撃機が登場し、それを射出可能な射出機が実用の域に達してしていたことが、この異様な水上機母艦を生み出すきっかけとなった。

 潜水艦については、大型の航洋潜水艦と小型の沿岸潜水艦の二本立てで計画が進められ、航洋潜水艦は1922年度から1930年度計画で『ルカンRequin』級9隻と『ルドゥタブルRedoutable』級31隻の建造が行われた。沿岸潜水艦は、潜水艦の建造経験がある三造船所に対してそれぞれ4隻発注し、『シルセ Circe』級、『シレーヌ Sirene』級、『アリアン Ariane』級の合計12隻が竣工している。海軍から提示された仕様に沿って各造船所が詳細設計を個別に行ったため、各艦の細部は異なっている。フランスは戦後、独仏国境の要塞建設と陸軍の軍備に多額の予算をあてていたが、上記の通りフランス海軍はおよそ十年で海軍力を相応に回復させることができた。

 

8-5. ジュネーブとロンドンの軍縮会議

 フランス海軍が地道に再建に励む中、ワシントン軍縮会議に続く国際的な軍縮への取り組みは何度か行われていた。1925年、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、ドイツの五カ国間で成立したロカルノ条約は、五カ国による相互不可侵協定とドイツの国際連盟加盟が主な内容であったが、締結国が中心となって国際連盟下での軍縮問題の議論を開始している。国際連盟は、アメリカの加盟を踏まえた国際軍縮会議のために軍縮会議準備委員会を設置し、軍縮のための動きを迅速に進めた。1926年、軍縮会議準備委員会はジュネーブに各国の代表を集めて会議を開始した。国際連盟に加盟していないアメリカは、自国の望む形での軍縮実現のため、自国代表を同委員会のもとで陸海空軍の検討を行うA小委員会に派遣している。なお、B小委員会は経済など軍事以外の検討を行う委員会である。A小委員会では海洋国家イギリスと大陸国家フランスの対立が大きくなり、海軍についてフランスは艦種別ではなく合計トン数による制限を訴え、国際連盟の代表団による軍備の削減状況査察まで主張した。会議は必然的に長引かざるを得なくなった。

 終わらない会議に愛想を尽かしたアメリカは、国際連盟軍縮会議準備委員会の努力を尊重した上で、ワシントン軍縮会議の主要国に対して、同会議で扱えなかった巡洋艦に関する会議を行うことを提案した。イギリスと日本はこのアメリカに提案に賛同したが、フランスは反対した。フランスは以前から、国際連盟に加盟していないにもかかわらず、軍縮という国際的な協議が必要な問題を諸外国に呼びかけるアメリカの姿勢を快く思っていなかったのである。イタリアは、フランスとの軽艦艇保有量の差を無くすことができるとこの会議に前向きではあったが、フランスが参加せず、また同等の保有量を認められる見込みもなかったため反対に回っている。巡洋艦に関する会議は、ジュネーブアメリカ、イギリス、日本によって進められたが各国間で妥協が成立せず、結果的に協定は流産となった。

 なお、ジュネーブ軍縮会議に参加しなかったフランスだが、列強国間の時流である軍縮に否定的であると思われるのを防ぐため、アメリカに対して国家政策遂行のための戦争を放棄し、衝突や紛争の際には平和的な解決を用いるという二国間不戦条約を提案した。結果的にこれは二国間ではなく、ロカルノ条約締結国やポーランドチェコスロバキア、英連邦諸国を含めた形でパリにて調印された。軍縮問題による国際的な孤立を恐れて同条約を提案したフランスであったが、ジュネーブ軍縮会議巡洋艦保有数を巡ってアメリカとイギリスの対立が顕著になっていることを確認すると、この不戦条約に興味を失っていった。

 イギリスとアメリカは巡洋艦について長く争っていたが、戦争を紛争手段の解決策として用いないパリ不戦条約によって協調へと向かっていった。1930年、イギリスとアメリカは事前に予備交渉を行った上で、日本、フランス、イタリアに対してロンドンで補助艦艇に関する軍縮会議を開催することを呼びかけた。フランスはワシントン海軍軍縮条約の締結国としてこの会議に参加したが、軍縮問題は国際連盟下で解決されなければならないと一貫して考えており、またイギリスとアメリカの親密ぶりを強く警戒した。フランスはジュネーブ会議と同様、ロンドン軍縮会議においても合計トン数による制限を主張した。また、自国の権益を保護するために1936年の段階で約10万tの潜水艦兵力を保有する必要がフランスにはあり、この兵力が認められないなら代替条件として政治的な安全保障体制を構築すること(二国間協定や安全保障を諮問する国際機関の新設など)を要求した。

 イタリアがフランスと同等の保有枠を期待していることを考えると、英米両国はその点でフランスに譲歩することができず、またすでに緊密な関係にあった両国は、フランスが求める新たな安全保障体制の構築にも積極的になれなかった。フランスとイタリアは同会議内で二国間交渉を行ったが、フランスと同等の保有枠を訴えるイタリアに対し、大西洋と地中海に面する自国が巡洋艦駆逐艦保有枠をイタリアと同一とされることはありえない、とフランスが反対するなどしたため合意に至っていない。二国間交渉が失敗に終わったイタリアはフランスと同様に、巡洋艦駆逐艦などの量的制限を受け入れないことを表明せざるを得なかった。フランスの内閣交代や、先の仏伊による二国間交渉失敗を受けた関係者はこれ以上の妥協は困難と判断し、参加国全てが合意した内容と、英米日の三カ国で合意された軍縮案を織り混ぜる形でロンドン海軍軍縮条約を締結した。

 

8-6. 大恐慌、変化する建艦計画と国際情勢

 ロンドン軍縮会議アメリカとイギリスが主導権を握る形で進められたが、艦艇の建造隻数が制限されたことは両国にとっても望まれることであった。1929年、アメリカでの株価大暴落を発端とする経済不況、いわゆる大恐慌が両国を蝕みつつあった。フランスにこの大恐慌の波が訪れるのは1931年からである。アメリカやイギリス、ドイツで大量の失業者が出ているニュースを見てもフランスはそれに動じず、自分たちの経済政策は正しいと信じていた。事実、他国が苦しむ中でも経済活動の水準は以前と変わらず、(当時のフランスにアメリカやイギリスのような大企業がなかったということでもあるのだが)海外の企業が倒産に苦しむ中、大量の資本がフランスへ流入していたからである。だが、1931年にもなると輸出相手国の不況が徐々にフランスにも影響を与え始め、輸出業者が困難に直面した。戦後のフランスは重化学工業の発展に努めてはいたが、繊維製品などの軽工業が依然として中心であり、輸出対象国の購買力が低下したことで生産活動が低下し、それに伴う投資の低下によって国内の経済活動は停滞していった。そして、1932年と1933年に世界的に農作物の価格が低下したことは、農業に従事する人口が多いフランスに致命的な一撃を与えた。フランスも大恐慌という厄災から逃れることはできず、またその解決は他国に比べて遅かった。

 イタリア海軍を横目で見ながら再建を進めていたフランス海軍であったが、ドイツがヴェルサイユ条約の制限内で『ドイッチュラントDeutschland』級装甲艦を1928年に計画したことが伝えられると、その建艦計画は転機を迎えた。同級は排水量10,000t(これは公称値で実際は12,000tほど)で速力26ktを発揮し、主砲に28cm砲を搭載。ディーゼル機関によって長大な航続距離を持つとされていた。ヴェルサイユ条約によってドイツは潜水艦の保有を禁じられていたので、この装甲艦が通商破壊の任務にあてられることは明白であった。このドイツが生み出した装甲艦は、イギリスやフランスが保有する既存の巡洋艦を火力と装甲で上回り、かつ戦艦に対してはその速力を活かして退避することが可能と評価され、フランスはこれに対処する策を講じなければならなくなった。当時、この装甲艦を捕捉撃滅可能な火力、装甲、速力を備える艦艇を欧州海軍で持つのはイギリスぐらいしかなかったからである。フランスは1920年代中頃、イタリアの巡洋艦を撃破可能な17,500tの戦闘巡洋艦(30.5cm四連装砲二基、速力34~36kt)を戦艦の保有枠内で建造することを計画していたが、ドイツの装甲艦建造を受けてこの試案を白紙にし、より強力な艦艇を建造することを決定した。これが1931年度計画で建造が承認された『ダンケルクDunkerque』である。同艦は排水量26,500t、主砲として33cm四連装砲を二基搭載する中型高速戦艦であり、二番艦の『ストラスブールStrasbourg』の建造も1934年度計画で承認された。この新型戦艦に随伴する軽巡洋艦として、『ラ・ガリソニエールLa Galissonniere』級が1931年度計画と1932年度計画で計6隻建造され、1932年度計画では同じく随伴用の『ル・アルディLe Hardie』級駆逐艦の建造が承認されている。これらの新型艦によって編成された襲撃部隊(Force de raid)は大西洋側に配備され、ドイツの通商破壊戦に備えることになった。ドイツの装甲艦に対するフランス海軍が出した回答は、上記のようなものであったが、フランス海軍としてはまだ不十分であった。大恐慌の影響で国内経済が停滞すると、議会は海軍の新造計画を承認することを渋るようになった。『ダンケルク』にしても、原案の建造費を45%減額されたと言われており、ワシントン軍縮会議で認められていた35,000t級戦艦の建造など、この時点では認められるものではなかった。

 国際情勢にも変化があった。1933年にはアドルフ・ヒトラーがドイツにおいて政権を奪取し、国際連盟主催で行われていた軍縮会議の離脱と国際連盟からの脱退を宣言した。再軍備を求めるドイツと、それに宥和的姿勢をとるイギリスを前に、フランスは領土の維持とロカルノ体制を補完する新たな安全保障体制を求めたが、ドイツ、オーストリアハンガリーだけでなく、アメリカ、イギリスも消極的な姿勢をとったためこれは実現しなかった。かつての力を取り戻そうとするドイツを警戒した仏伊両国は接近を図り、1935年1月、両国間でローマ協定が締結された。この協定は、アフリカでの利害関係を調整し、東欧諸国の安全確保とドイツの攻撃に対して両国が共に対抗することを確認するものであり、軍部が長年望んでいたものであった。2月にはイギリスもフランス、イタリアと共にドイツに対して連携する姿勢を示している。3月、ドイツが再軍備を宣言したことを受けた三カ国はイタリアのストレーザで会議を行い、ドイツの一方的な条約破棄を批難するとともに、ロカルノ体制の遵守とオーストリア独立の保全を約束することを確認し、反ドイツの「ストレーザ戦線」を結成した。しかし、イギリスはドイツが国際連盟に復帰するならば、ヴェルサイユ条約上の軍備制限条項を再検討してもよいと考えており、イタリアもイギリスやフランスがオーストリアの独立に積極的ではないことを確認すると、やがてドイツに接近するようになるなど、この三カ国の連携は強力ではなかった。

 

8-7. 英独海軍協定と対英追随外交

 1935年6月、イギリスがドイツと締結した英独海軍協定によって、ストレーザ戦線の崩壊は決定的なものとなった。この協定は、イギリスの海軍力の35%をドイツが保有することを認めたもので、これによってドイツは従来保有が出来なかった大型の戦艦や空母の建造が可能となった。この後、ドイツは38cm砲を搭載する『ビスマルクBismarck』級戦艦や同国初の空母となる『グラーフ・ツェッペリンGraf Zeppelin』の建造を開始することになる。フランス海軍の敵はイタリア海軍からドイツ海軍へと完全に変わった。もちろん、依然としてイタリア海軍が有力な艦隊を保有し、また増強を図っているのは疑いようのない事実であったが、フランスが優先すべきは最大の脅威であるドイツに対抗することだった。1935年度計画では38cm砲を備える『リシュリューRichelieu』級戦艦を2隻建造することが決定した。また、1938年度計画では『ベアルン』以来初となる新造空母の『ジョッフルJoffre』級2隻の建造が承認されている。ドイツ再軍備と英独海軍協定を受けたフランス海軍は、戦力の増強に努めようとしたものの、大恐慌の影響が完全に消え去っていない状況下、ドイツに対抗するために陸軍と空軍の軍備拡充が進められたこともあってその実現は難しいものがあった。『ジョッフル』起工から二週間も経たないうちに、ドイツでは『グラーフ・ツェッペリン』が進水式を行った。それを知らせる新聞が国内で発行されたとき、フランス国民はフランス海軍が持っている空母が旧式の『ベアルン』のみであることを嘆いたが、そのときのフランス海軍の心情は推して知るものがある。

 第一次世界大戦後、イギリスは基本的にフランスに対して冷淡な態度をとってきたが、1935年10月にイタリアがエチオピアへ侵攻したときには反応を示した。地中海におけるイタリアの影響力をイギリスも無視できなくなっていたからである。対イタリア戦争のときの協力について両国は会議を開き、地中海作戦における責任分担など海軍に関する合意が得られた。イタリアのエチオピア侵攻に関しては、イギリスもフランスも最終的には黙認する態度をとったが、フランスは今後の戦略パートナーとしてイギリスとイタリアどちらを選択するのか求められ、最終的にイギリスを選択することになった。イギリスがいなければ、植民地との連携だけでなく、人的資源や装備などの確保も不可能な状態にフランスはあったからである。1914年の段階で160万トンあったフランス商船隊は、1925年には戦後の輸送需要増加もあって210万トンまで増大していたが、1930年には200万トン、1938年には166万トンと段々減少していた。1932年には全体の四分の一が艤装を解かれ、一万人以上の船員が失業状態になっている。フランスの商港を出入りする船舶のうちフランス船籍のものは四分の一しかなく、大恐慌の中で市場としての重要性がいくらか増した植民地との輸送を行う船舶についても、三分の一以上がイギリスなどの外国船によって行われていた。フランスは、戦時はもちろんのこと、平時においてもイギリスがいなければ国内の需要を満たすことができなかったのである。

 フランスはただひたすらに、イギリスへ安全保障を求め続けた。1936年のラインラント危機ではフランス側の要望によって参謀会議が開かれたが、イギリスは至極消極的であり、有益な合意などは一切なかった。ドイツがオーストリアを併合した1938年3月には再度会議が開かれたが、ここではイギリスから「貴国は(その必要が生じたときには)チェコスロバキアを救援に行くというが、実際に何ができるのだろうか」といった無礼かつ的確な質問を受けている。この会合で、自らの軍事力が脆弱であると認識したフランス政府は以後、イギリスに追随する外交を取るしか選択肢がなくなっていた。1938年9月、ドイツ人が多く居住するチェコスロバキアズデーテン地方の割譲をドイツが要求したとき、イギリスに同調してドイツの要求を認めたことは良い例である。イギリスがドイツやイタリアに徹底的に対抗する姿勢を見せない以上、フランスには単独で戦う気概も準備もなかったのである。1936年に陸海空軍の運用を検討する国防常設委員会を設置していたフランスであったが、この委員会は議論する問題は広範に及ぶものの、開かれるのは稀であり、三軍で協調が取れているとは言い難かった。そんな委員会であったが、ズデーテン危機後の1938年12月の会議では、国防参謀総長を務めるモーリス・ガムラン将軍が、地中海の制海権は植民地と同盟国との連携のためにも絶対必要であり、「イギリス海軍と協力した上で」フランス海軍は地中海を支配しならなければならないと述べている。このように、フランスは外交面だけでなく、軍事面においてもイギリスに追随することを余儀なくされていたのである。

 

8-8. 第二次世界大戦と国家の分裂

 1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻したことに抗議する形で、イギリスとフランスはドイツへ宣戦布告した。第二次世界大戦の勃発である。フランス海軍はイギリスとの事前協議に従い、地中海からビスケー湾ドーバー海峡にいたる海域の船団護衛を行うこととなった。大西洋側に配備された新型戦艦や巡洋艦は、イギリス海軍と共同してドイツの通商破壊艦の捜索にあたった。イタリアの参戦を警戒しつつ、イギリス海軍と共同作戦を実施していたフランス海軍であったが、1940年5月のドイツの西方作戦によって綻びが生じた。アルデンヌの森を突破したドイツ軍戦車部隊によってフランス陸軍は蹂躙され、6月15日にはパリが占領されてしまったのである。17日には第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が首相となり、22日には独仏休戦協定が結ばれた。当初ボルドーにあった臨時政府は中南部のヴィシーに移され、この親独的な政府は一般的にヴィシーフランスと呼ばれる。この休戦協定では、フランス植民地の保護のための一部を除いてフランス艦隊は指定された港湾に集結し、ドイツまたはイタリアの管理下で武装解除あるいは解体されることになっており、戦争中にドイツの対英戦には使用されないとされていた。イギリスはフランスの単独休戦の条件としてフランス艦隊のイギリス回航を要求していたが、海軍総司令官のダルラン提督は全ての艦船に対してアフリカへ向かうよう指示し、艦隊をイギリスにもドイツにも渡さない姿勢を見せた。

 フランス艦隊がドイツの手に渡ることを恐れたイギリスは「カタパルト」作戦を7月3日に発動する。イギリスはフランス艦隊に対し、イギリス海軍と合流してドイツとの戦争を続ける、乗員を減らしてイギリス海軍の指揮下でイギリスの港湾に向かう、イギリス海軍同行の上でカリブ諸島に向かって同地で武装解除する、中立国の立場にあったアメリカへ向かって終戦まで係留される、イギリスが指定する期限までに自沈する、といった選択を要求した。このイギリス海軍の要求を受けてアルジェリアのアルジェにいた艦隊はトゥーロンへと向かったが、同じアルジェリアのメルセルケビールと、西アフリカのダカールに停泊する艦隊はいずれも要求を拒否した。この勧告前にすでにイギリスの港に停泊していた艦隊は、イギリスの手によって武装解除されている。イギリスはメルセルケビールとダカールに停泊していた艦隊を攻撃し、メルセルケビールでは旧式戦艦の『ブルターニュ』が沈没、戦艦2隻が大破着底した。ダカールではイギリスの空母艦載機によって『リシュリュー』が損傷している。かつての同盟国に攻撃されたことでイギリスへの不信を高めたヴィシーフランスは、4日にイギリスとの国交を断絶した。

 一方、イギリスはそれに先立つ形で、ロンドンへ渡っていたシャルル・ドゴールを自由フランスの指導者と認め、自由フランス軍総司令官としてイギリス軍とともに戦う協定をドゴールは8月に結んだ。以後、フランス海軍はヴィシーフランスと自由フランスに分かれて砲火を交えることになる。自由フランス海軍の主力となったのは駆逐艦以下の小型艦で、船団護衛や哨戒などの任務に従事した。自由フランスにとって初めての本格的な作戦は1940年9月のダカール作戦である。当時、ダカールには戦艦『リシュリュー』をはじめ、巡洋艦駆逐艦、潜水艦など数隻が停泊していた。イギリス海軍カニンガム提督の指揮下で自由フランスも参加したこの戦いでは、ヴィシーフランス側の艦艇を数隻撃沈したものの、イギリス側もフランス潜水艦の雷撃によって戦艦が被害を受けてしまい、上陸作戦は失敗に終わった。その後、自由フランス軍ガボンソマリアなど、アフリカ植民地の攻略作戦に参加している。

 アメリカが連合国側に立って参戦してから一年ほど経った1942年11月8日、米英連合軍は「トーチ」作戦を発動した。フランスの北アフリカ植民地であるモロッコカサブランカアルジェリアのアルジェ、オランそれぞれへの上陸作戦である。各地で戦闘となり、カサブランカでは『ジャン・バールJean Bart』が米戦艦『マサチューセッツMassachusetts』の砲撃によって大破し、それ以外の艦艇も大半が撃沈あるいは撃破された。戦闘発生から数日後、ダルランはペタンに連絡をとった上で北アフリカフランス軍全軍に停戦を命じ、北アフリカのヴィシーフランス軍と米英連合軍との戦闘は終了した。

 ドイツはこの一連の行為に対する報復として、ヴィシーフランスの統治下にあった自由地帯の占領作戦を実行し、11月27日にはトゥーロン港に突入した。このドイツ軍の侵攻を確認したトゥーロンに停泊するフランス艦隊は、ドイツ軍による接収を防ぐため旗艦『ストラスブール』から発せられた発光信号に従って一斉に自沈を敢行した。これによって戦艦3隻、水上機母艦1隻、巡洋艦7隻、駆逐艦32隻などを含む合計77隻の艦艇が港内で失われた。ドイツやイタリアの手に渡った艦艇は数隻であった。

 以後、自由フランス軍の艦隊は護衛、哨戒、港湾防衛などの任務につき、イタリア降伏後にはコルシカ島へ上陸作戦を実施している。その後、ノルマンディ上陸作戦プロヴァンス上陸作戦に参加するなど連合軍と共に大西洋、地中海で共同作戦を実施した。また、アメリカで改装された『リシュリュー』は、対日作戦のためにイギリス艦隊とともにインド洋へ向かい、同地域の諸作戦に参加している。

 

8-9. 大戦の終結と脆弱な共和国の誕生

 ドイツが1945年5月に降伏し、広島と長崎に原爆を投下された日本が8月にポツダム宣言を受託したことによって、第二次世界大戦終結した。フランスはドゴールの働きかけによって戦勝国として戦後を迎え、新たに発足した国際連合のもとで安全保障理事国となることができた。しかし、第二次世界大戦によってフランスが受けた被害は甚大であった。戦争によって60万人が死亡し、数多くの農地や住宅、鉄道などが破壊され、戦後復興のため新たに必要な労働者の数は500万人と推定された。商船は85万トンしか残っておらず、マルセイユ、ル・アーブル、ナント、ボルドーなどの主要港はその設備の七割以上を破壊されている。また、終戦直後の農作物の生産量は戦前の六割を満たすのがやっとであった。米軍兵士の乗ったトラックに子どもたちが食糧を求めて群がる光景は日本だけのものではなく、フランスでは1949年までパンの配給制が続いた。大戦中、アメリカやイギリスから艦艇の供与を数多く受けたフランス海軍は隻数だけなら見るべきものがあったが、フランスが建造した艦艇はほとんど残されておらず、また当然ではあるが新造艦もなかった。第一次世界大戦のときと同じく、戦勝国とは思えない凄惨な状態でフランス海軍は終戦を迎えることになった。

 第一次世界大戦後、フランス海軍はイタリア海軍を新たな仮想敵と定め、近代的な艦隊の新設に取り組んだ。経済面、技術面など数多くの制約がある中で有力な艦艇を建造していったフランス海軍であったが、植民地の重要性が高まったことと比べると、政府のフランス海軍に対する認識は戦前から大きく変化していなかった。大戦を生き延びたフランス国民は戦争を拒絶し、政府が攻勢的な軍備を進めることに反対して、外交による平和的な解決を望むようになった。ドイツを重大な脅威と認識し、恐怖と不安に精神を支配されていたフランスは、マジノ線といった守勢的な軍備を進めつつ、イギリスやアメリカに自国の安全保障を求め続けた。ワシントンでもロンドンでも、フランス海軍には過剰(実現不可能)と思えるほどの兵力をフランス代表が要求したのは、イギリスやアメリカから自国の安全保障の確約を引き出すためであり、フランス海軍は政治的駆け引きの取引材料として見られていた。四年にわたる塹壕戦で苦い勝利を得たフランスの中で、海軍が国防における重要な組織であるという認識は未だ多数派ではなかったのである。かつて自らの存在理由のために植民地の獲得を支持したフランス海軍であったが、本国とアフリカ植民地周辺の海域を、戦後仮想敵となったイタリア海軍、そして復活したドイツ海軍から完全に防衛するのは、イギリス海軍の協力がなければ不可能であった。そして、かつての教え子であり、短期間のうちに著しい発展を成し遂げた日本海軍の前では、フランス領インドシナの防衛はまさに絶望的だった。フランス政府に対してフランス領インドシナの放棄を主張するフランス海軍軍人も存在したほどである。第二次世界大戦でフランス陸軍がドイツ陸軍に敗北し、祖国がヴィシーフランスと自由フランスに分裂した後、フランス海軍は再び、枢軸国と連合国への取引材料として用いられ、終戦を迎えることになったのである。

 本国と植民地のため、フランスの大陸性に抗いながら努力を重ね続けた、戦間期フランス海軍の20年間は何だったのだろうか。これについては、前回も含めたフランス第三共和制、ひいてはフランス軍事史全体の話となり、様々な視点を加えた、より詳細な検証が必要と考えるのでここで断言することは避けたいと思う。ただ、これに関連した私見を一つ述べるとすれば、独仏国境に要塞を建設することを推し進めた者、戦争という行為を拒絶してその政策を支持した者、自国の安全保障を他国に求め続けた者、フランス海軍を必死に再建した者、フランス海軍を政治的な取引材料に用いた者、その扱いを否定して自らの立場が重要であることを訴えなかった者、第二次世界大戦時の緒戦でフランスに決定的な敗北をもたらした者、フランス海軍軍人として海上で戦い続けた者、そして最終的にフランスに戦勝国の地位を与えることに寄与した者。その誰もが同じフランス人(フランス国民)であった。ある重要な問題(国家防衛)に対し、過去の出来事(凄惨な大戦争)にいつまでも囚われ続け、妥協と合意が成し得ないのはおそらくフランス人だけではないだろう。それは身近にもいるはずである。

 フランス解放の英雄として、臨時政府の首班となっていたドゴールであったが、共産党社会党との確執を理由に1946年1月に辞職した。共産党は外相や国防相といった重要なポストを度々要求し、社会党は国防費の削減をドゴールに求めていたからである。自由フランスやレジスタンスといった、国民的団結を体現するドゴールの退陣は、フランスが再び政党政治に戻ることを意味していた。同年10月、第三共和制の多党政治体制を引き継いだような形の第四共和制憲法国民投票によって採決された。53%の賛成票によって採決はされたものの、国民の三割が棄権(有権者の36%が賛成し、31%が反対)した中で成立した、非常に脆弱な共和国であった。第四共和制は、戦後の経済復興に努める傍ら、第三共和制が残した植民地帝国の清算と、冷戦という新たな時代の脅威の両方に対処しなければならなくなったのである。

 

 

次回は「冷戦とフランス海軍─第四共和制と植民地帝国の終焉─」です。

 

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