フランス海軍通史 第三回:太陽王とフランス海軍

前回(第二回:王立海軍の発展)の続きです。

 

 

3-1. フランドル戦争オランダ戦争王立海軍の綻び

 コルベールは、フランスが周辺諸国と戦争することもフランス海軍が戦うことも望んでいなかったが、現実は非情であった。コルベールによって一時的にフランスの財政は建て直されたものの、ルイ14世の「フランスの栄光」のための対外戦争への熱意が消えることはなく、また彼がフランスのためにとった重商主義政策がオランダやイギリスを刺激し、後に両国の接近を促したのは皮肉でしかなかった。「君主にとって最も相応しく、最も好ましい仕事は領土を広げること」と唱えるルイ14世の思想は対外拡張しか頭にない戦争狂のそれにも感じられるが、経済、文化、国防の面で重要な北部から北東部に隣接する地域の防衛と併合を念頭に置いた、古くから続く一貫した大陸戦略の延長線上にあった。まず彼は1667年、スペイン領ネーデルラントの相続権を主張してスペインに宣戦布告、フランドル戦争を開始した。フランドルを掌握した後、1672年にオランダへ宣戦布告し圧倒的な軍事力でオランダ諸都市を占領して首都アムステルダムに迫った。その後、オランダの体勢立て直し、同盟関係の変化によってフランス軍はオランダから撤退し、スペイン領ネーデルラントでスペインおよびオーストリア軍と戦闘を繰り広げ、1678年の講和でフランドル地方などを獲得する。

 自らの専門分野ではないことに関してはその道の専門家に任せるのが最適として、経済、産業面の政策をコルベールに一任していたルイ14世であったが、このオランダ戦争後は財政に関して苦言を呈するコルベールから距離を取って、戦争を支持するルーヴォワを重用するようになった。コルベールはその後もルイ14世財政再建を進言し、1683年6月には財政難に真摯に向き合うよう求める報告書を国王に提出するが、国王には戦争のための出費を控える意思はなく、コルベールに財務総監として職務に忠実であることを求める言葉が返ってくるだけであった。同年9月にコルベールは失意の中でこの世を去る。亡くなったコルベールに代わり長男のセレニューが引き継いだものの、ルーヴォワの影響力には抗えず、またルイ14世の目は完全に大陸を向いていた。コルベールが設立したインド会社は破産や赤字を度々経験していたが、彼の死によって公金を回す余裕がなくなったため、アジアにおける貿易活動は停滞を強いられることになった。

 1685年のフォンテーヌブローの王令で、ルイ14世が国内のプロテスタントから信仰の自由を剥奪したことはコルベールが実施してきた政策に強烈な一撃を与えた。大西洋側の商人には新教徒が多く、また彼が奨励した国内の産業に従事する人々にも新教徒の割合は多かったからである。このフォンテーヌブローの王令で20万人ほど(当時のフランスの総人口の1%ほど)の新教徒がフランスからスイス、オランダ、北ドイツなどに移住したために、フランス国内の商業、産業は大きな被害を受けた。コルベールが長く苦悩していた船員の確保も、水夫を雇っていた商人が国外に逃亡したことによってより招集が困難となり、フランス海軍は戦列艦の運用に支障をきたした。商人が営んでいた海運業を国家政策として追認し海軍の発展に努め、そのための経済、産業基盤が整えられたイギリスとは違い、コルベールの強い指導力によって整備されたフランス海軍には、コルベール没後にその存在を保障する政治的、経済的基盤はなかったのである。

 

3-2. アウグスブルク同盟戦争と王立海軍

 1688年、神聖ローマ帝国内の選帝侯(神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権利を持った諸侯)であるプファルツ選帝侯が没した際にルイ14世がその継承権を主張したことに対して、神聖ローマ帝国、オランダ、スペイン、スウェーデンアウグスブルク同盟を結成した。しばらくしてフランスはアウグスブルク同盟諸国へ宣戦布告する。いわゆるアウグスブルク同盟戦争(大同盟戦争)である。開戦当初は戦闘を優位に進めたフランスであったが、名誉革命でオランダ総督ウィレム3世をウィリアム3世として招き入れたイギリスがアウグスブルク同盟側についたことで戦況は悪化した。この戦争中、両国間で海戦が不定期に発生したが、その中でもビーチヘッド沖海戦とラ・オーグの襲撃は象徴的なものとなった。1690年、トゥールヴィル提督の指揮するフランス艦隊はイギリス、オランダの連合艦隊とビーチヘッド沖で戦闘を行い、一隻の損害艦もなく連合艦隊戦列艦十隻近くを撃破する戦果を上げた。このときに連合艦隊を指揮していたイギリスのハーバート提督は議会から責任を厳しく追及され、一応無罪放免とはなったものの二度と現役に返り咲くことはなかった。しかし、この海戦はそもそもフランス側が隻数において優勢であったが、トゥールヴィルは追撃戦に執着しなかった。ビーチヘッド沖海戦だけでなく、今までに行われた海戦でもフランス海軍はどちらかと言えば消極的な戦闘を行うことが多かったが、それもコルベールの海軍思想に影響を受けていたと考えられる。

 そして、1692年のラ・オーグの襲撃は後のトラファルガー海戦に匹敵する衝撃をフランス海軍に与えるものであった。同年、イギリスにカトリック絶対王政を復活させようとする前国王ジェームズ2世を支援するために出撃したトゥールヴィル提督率いるフランス艦隊は、またもやイギリス、オランダの連合艦隊と遭遇した。自艦隊の劣勢を悟ったトゥールヴィルは戦闘を回避しようとし、激しい追撃を躱して艦隊を分散し、何とか各地の港に逃げ込ませたものの、そのうちラ・オーグに逃げ込んで停泊していたフランス戦列艦はイギリス艦隊の攻撃によって焼き討ちされ、十隻以上を失ってしまう。フランス側の完全な敗北であった。1697年、ルイ14世がウィリアム3世をイギリス国王として認め、戦争中に占領した土地全ての返還などが盛り込まれた不利な講和条約を結ぶ形でアウグスブルク同盟戦争は終結した。

 ラ・オーグの襲撃における敗北以降、ルイ14世を始めとした政府関係者の目は海軍に対して厳しいものとなった。ルイ14世に仕える大臣たちは国王の大陸政策に盲従していたし、「金を食うばかりで何の役にも立たない」として海軍不要論を唱える者まで出るような状態であった。先のフォンテーヌブローの王令の影響も重なり、フランス海軍は大艦隊を出撃させることを諦めなければならなくなってしまう。しかし後述するが、以後イギリスとオランダは艦隊の損失ではなく自国商船の被害増加に苦しむことになった。フランス海軍は戦列艦から船員たちを解放すると同時に、私掠免許状を与えて彼らにイギリス船やオランダ船への私掠行為を行わせたのである。

 ダンケルクやサン・マロから出撃した私掠船はイギリスとオランダの商船に大きな被害を与えた。ビーチヘッド沖海戦の惨敗やラ・オーグの襲撃によって、イギリスもオランダも大艦隊を編成し、自軍の戦力が優位な状態で戦闘を行うことを基本方針としたが、この大艦隊は私掠行為という大量の小型船による自国商船への襲撃を防ぐにはあまりにも適していなかった。フランス側に艦隊決戦をする気が(もともと)なかったとしても、それを両国が確信するには情報があまりにも少なく、いつブレストから出撃してくるか分からないフランス艦隊にイギリス、オランダ艦隊は常に警戒する必要があったのである。私掠行為が増大して商船側から苦情が殺到すると議会も海軍もその対応に当たらねばならず、フランス商船の襲撃と自国商船の保護を目的にイギリスも私掠船を繰り出すことはしたものの、元来大陸国家で自給自足がある程度可能なフランスにはあまり効果がなかった。フランスの海外植民地への依存度は決してイギリスほど高くなく、さらに商人たちは戦争が始まればハンブルクスウェーデンなど中立国の船舶を利用し、フランスではなく他国の港へ向かうよう指示することで被害を軽減することもできたのである。イギリスの島国、海洋国家としての弱点をフランスはよく理解しており、フランス海軍は「精巧かつ頑丈な鎧と研ぎ澄まされた剣を備える騎士」から「敵側の食糧と水を略奪する手足の長い海賊」になっていった。

 

3-3. スペイン継承戦争王立海軍

 1700年、ヨーロッパ諸国に動揺を与える出来事が起きる。以前から病弱で知られていたスペイン王カルロス2世は、大方の予想通り跡継ぎを残さずに早世してしまったが、彼は遺言でルイ14世スペイン王女マリー・テレーズとの孫であるアンジュー公フィリップを、フランス王位を継承しないことを条件に自らの後継者に指定していたのである。フランス王位の継承権を放棄していたとしても、ブルボン家の人間がスペイン王となることにヨーロッパ諸国は警戒し、フランスもそれを理解していた。最終的に、アンジュー公フィリップはフランス王位継承権を放棄してスペイン王フェリペ5世として即位し、ヨーロッパ諸国もこれを承認した。

 しかし翌年、フランスはフェリペ5世のフランス王位継承権放棄を撤回する。フランスはネーデルラントに軍隊を派遣し、またスペインに駐留していたオランダ軍は追放された。フランスの突然の翻意にオランダ、イギリス、オーストリアは同盟を結成し、スペイン王位継承権を持つオーストリアのカール大公を擁立してフランスに対抗する。1701年、この三国はフランスとスペインに対し宣戦布告し、ルイ14世統治下で最後の戦争となるスペイン継承戦争が勃発した。さすがに何度も戦争しているオランダとイギリスに、オーストリアも加わった同盟軍にはフランスも苦戦を強いられ、この戦争は10年にも及んだ。だが父親の死去に伴ってカール大公が神聖ローマ皇帝を継承すると、オーストリアとスペインの強力な連合王国が誕生することを恐れたイギリスとオランダは戦争終結に向かう動きを見せ、1713年にユトレヒト講和条約が結ばれる。この講和条約で、フェリペ5世はフランス王位継承権を改めて放棄し、フランスとスペインが未来永劫連合を組まないことを条件にスペイン国王として再承認された。その代償として、スペインはナポリシチリア、ベルギー、ミラノ、ジブラルタルとヨーロッパにある数多くの領土をオーストリアやイギリスに譲渡しなければならず、フランスもニューファンドランドなど北米植民地の一部をイギリスに譲渡した。この戦争中の1708年から1709年にかけて、フランスを襲った未曾有の寒波によって国内の農業は壊滅的な被害を受け、フランスの経済と産業はさらに疲弊した。農作物の不作によって食糧の価格が上昇し、富裕層が食糧購入に資金を投入することでその他の産業が資金難に陥って発展が阻害されるという光景は、いまだに農業国から抜け出せないフランスの脆弱な産業基盤をよく表現していた。

 スペイン継承戦争中、フランス海軍は何をしていたのだろうか。先に述べたように「手足の長い海賊」となりつつあったフランス海軍であったが、合計隻数だけなら未だイギリスと同等の数の戦列艦を有していた。1703年、上陸した英蘭連合軍によってスペイン領ジブラルタルが占領されると、フェリペ5世は祖父のルイ14世ジブラルタル奪還のためのフランス艦隊派遣を要請した。孫の要請を受け入れたルイ14世は、息子のトゥールーズ伯(ルイ・アレクサンドル)率いる艦隊をトゥーロンからジブラルタルに向かわせたが、この艦隊はスペイン南部のマラガ岬沖で哨戒中の英蘭連合艦隊に遭遇してしまう。艦隊戦力はほぼ同等で、朝から夕方までかけて行われたこの海戦は結局両者の痛み分けに終わった。ただこの海戦で重要なことは、フランスがジブラルタル奪還という目的を果たすことが出来なかったという点にある。のちに再奪還を試みてブレストを出撃した艦隊も英蘭連合艦隊を前に敗走するしかなかった。ラ・オーグ襲撃の衝撃から未だ回復していない状態のフランス海軍は、艦隊による決戦をさらに拒否し、私掠活動を増大させていった。

 スペイン継承戦争中、ダンケルクを拠点とする私掠船は959隻、サン・マロは683隻の商船をそれぞれ捕獲した。1702年から1707年にかけてフランスによって捕獲されたイギリス商船は3000隻におよぶと言われる。イギリスはこの略奪者の巣窟を破壊しようと何度も計画したが、ダンケルクは要塞のような防御力を持っており、サン・マロは入江の地形が複雑かつ潮流が早いこともあって艦隊を長期間配置するのが困難であった。当時のイギリスの海上貿易先はバルト諸国、北ドイツ、オランダ、トルコ、ギリシャ、インド、カリブ諸島、西アフリカと数多く存在し、フランス私掠船は帰港するイギリス商船をイギリス近海で待ち伏せし、獲物を好きなように選ぶことができた。イギリスの目の前にあるドーバー海峡で私掠行為が多かったことはイギリス海軍に対する不信を高め、商人や海運業からの悲鳴に似た苦情は増えるばかりであった。イギリス議会は商船護衛を目的とした艦隊運用を海軍に求めざるを得ず、海軍は従来の艦隊運用方針の修正をしなければならなくなる。ただし、護衛艦艇の新造が並行して進められ、正面戦力を分散配備させる悩みが徐々に解消されていったことはイギリス海軍にとって幸いであった。イギリス海軍と商人の怒りを体現したものとして、実際には強制力がなかったものの、先のユトレヒト講和条約の中にフランス私掠船の基地であったダンケルク港の完全な破壊が含まれていたことがあげられるだろう。それだけフランス私掠船の活動はイギリスにとって厄介だったのである。

 

3-4. 私掠活動の限界と財政問題

 ただし、結果論となってしまうがフランス私掠船の活動はイギリスを傷つけはしたものの、戦争の趨勢を決定つけるものにはならなかった。イギリス海軍ドーバー海峡を含めた沿岸海域で積極的に船団護衛を行うようになると、先に述べたフランス本国の経済不況も合わさって私掠船の活動は減少していった。私掠品の一部を懐に入れることが認められていたとしても、イギリスの護衛艦隊がいない遠洋にまで出て私掠行為を行うのは負担が大きかったからである。フランスの私掠行為によって、イギリスが大いに傷つけられたことは間違いないが、その対策で強化された海軍力によってイギリスは海上貿易を継続することができた。

 また、17世紀からイギリスとフランスは(ほとんどフランスのせいだが)戦争を何度も行い、軍事技術の向上もあってその増加する軍事費に苦しんでいたが、その対応に両者では大きく差があった。フランスの税収は古くからその多くを直接税(地租)に頼っており、スペイン継承戦争終結時点で直接税の割合が税収の六割を占めていた。同年代のイギリスの直接税が税収の三割ほどしか占めていないのと対照的である。イギリスは地主の影響が強いこともあって直接税を上げることが難しく、間接税(消費税)に頼りきらざるを得なかったという背景もあるが、結果的にこれはイギリスに大きく味方した。イギリスは所得弾力性の高い商品、すなわちビールや砂糖といった商品に優先して税をかけ、貧困層を圧迫しないようにしながら経済成長を進めていった。イギリスは海上貿易が継続され、輸入された商品が国内で消費されればそれだけ税収は増加する。その一方、課税に激しく抵抗する貴族たちのことを考えると、イギリスのように間接税をおいそれと上げることができないフランスは、貿易量が増加したとしてもその税収の増加には限界がある。参考までにおよそ80年後の1790年の段階で、税収におけるイギリスの間接税の割合は八割、フランスは五割であった。

 また、1693年にイングランド国立銀行を設立したイギリスは、戦費の調達など必要に応じて国立銀行国債を発行し、その償還を議会が保証するという制度ができつつあったが、フランスにこのような制度はなかった。フランスは直接税を中心とした税収と借金に頼ることを繰り返し、債務不履行を重ねることも珍しくなかった。フランス艦隊がイギリス艦隊を撃滅することができず、またイギリスが大陸の同盟国の助けがなければルイ14世の陸軍に勝利できない以上、戦争は必然的に長引くことになるが、そうなると先に苦しくなるのはフランスだったのである。

 

次回は「王立海軍の危機」です。

 

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