フランス海軍通史 第一回:フランスの海洋進出と海軍の創設

フランス海軍通史の第一回です。

 

 

・はじめに

 2021年7月、フランスは「インド太平洋地域におけるフランスの優先課題」という声明を打ち出した。以下要約すると、現在、世界経済の中心はインド太平洋に移動しており、世界経済成長の鍵は同地域が握っている。しかし、法の支配を遵守しない中国の台頭でこの地域の均衡が崩れ、また米中競争の激化によって緊張が高まりつつある。フランスは、日本が打ち出した「自由で開かれたインド太平洋」という戦略を支持し、日本、インド、オーストラリア、ASEANといった国々と共通のビジョンを持って、この地域の安定に取り組む――といった内容である。

 ユーラシア大陸の西方に位置するフランスは間違いなく大陸国家ではあるが、「海洋国家」としての一面も持っている。フランスの排他的経済水域(以下EEZ)は世界トップレベルの面積を誇り、その93%はインド洋、南太平洋に今も数多く領有する海外領土によるものだ。フランス本国の面積は地表の約0.5%しかないが、フランスのEEZは世界全体のEEZの約8%に相当する。そこに住む人々はフランス国籍を持つ紛れもないフランス人であり、彼らと彼らの財産を守るために数隻の艦艇と数千名の兵士が同地域には展開している。2020年8月にモーリシャス沖でばら積み貨物船『WAKASHIO』が座礁した際、モーリシャスのジャグナット首相が離礁や環境保護のために必要な技術や知識がないことを理由にフランスに支援を求め、同国近くに位置する仏海外領土のレユニオン島に展開する部隊が支援にあたったことを覚えている方もおられるだろう。

 近年のフランスのインド洋、南太平洋へのプレゼンスは積極的だ。2016年には「アジア太平洋安全保障報告書」で日本、アメリカ、インド、オーストラリアと共に安全保障協力を進める姿勢を示した。2018年、インド洋での軍事協力を定める協定をインドと締結し、エマニュエル・マクロン大統領は会見で「フランスはインドにとって欧州第一の戦略パートナーとなる」「インド洋や太平洋で覇権はあってはならない」とインド洋の安全保障面でのインド支持とともに、中国の海洋進出を牽制した。

 2019年には、同国が保有する唯一の空母『シャルル・ドゴール Charles de Gaule』がインド洋から太平洋に展開し「ミッシオン・クレマンソー」を実施。インド海軍、オーストラリア海軍、アメリカ海軍、そして海上自衛隊と共同訓練を実施した。2021年2月には原子力攻撃潜水艦『エムロードEmeraude』と支援艦『セーヌ Seine』を南シナ海で巡回させている。我が国の『そうりゅう』型潜水艦よりも小さい同潜水艦を、支援艦の随伴があるとはいえ本国から遠く離れた南シナ海まで展開させた事は、フロレンス・パルリ国防大臣の言葉を用いるなら「我が海軍(フランス海軍)が、オーストラリア、アメリカ、日本という戦略的パートナーと共に、遠く離れた海域に、長期間展開できることを証明した」事例となった。3月には海賊対処行動でソマリア沖・アデン湾に派遣されていた護衛艦『ありあけ』と、空母『シャルル・ドゴール』を中核とした機動部隊が合同訓練を行なっている。5月には、九州にある霧島演習場で陸上自衛隊アメリ海兵隊、そしてフランス陸軍による共同訓練が実施された。我が国とフランスの安全保障面での関係は着実に強化されている。

 前置きが長くなってしまったが、今回の記事はフランスが持つ海洋性に注目し、フランス海軍史を簡単な形で振り返ろうという試みである。我が国の海軍史(+海上自衛隊史)において、多大な影響を与えてきたのは言わずもがなアメリカ海軍とイギリス海軍であるが、横須賀造兵廠その他の建設において多大な貢献をしたヴェルニー技師の名が公園の名前として今も横須賀に残っているように、フランス海軍が与えた影響は無視できない。フランスは1950年代半ばに、70年近く保持していたフランス領インドシナを放棄したため、練習艦隊の来航ぐらいでしかその艦艇を見る機会はなくなってしまった。それから70年も経ち、同国が中国の海洋進出をインド洋、南太平洋の「嵐」と認識し、我が国と協力していく姿勢を見せたことは大変歓迎すべきことであると考える。フランスはファッションやバカンスといった華やかなイメージとは別に、国連安全保障理事会における常任理事国で、核不拡散条約(NPT)で核保有を認められた核保有国であり、現在もヨーロッパ屈指の軍事力を保有する軍事大国である。また、ドイツと共にEUの中心的存在であり、宗主国時代から続くアフリカや、中東との特別な関係を維持し、アメリカやイギリス、ロシア、中国といった大国を相手にグローバルで強かな外交を展開する外交大国でもあるのだ。もちろん、フランスが今後ずっとインド洋、南太平洋に張り付くというわけではないだろうが、同国との協力関係を強化するのは我が国にとって悪い話ではないだろう。

 そこで、フランス海軍がただやって来てくれたことを喜ぶだけでなく、同国の海軍がどのような歴史を辿ってきたのかを知っておくことは、相互理解を深める意味でも無意味な行動ではないはずだ。そんなものを考えなくても、と思う方もいるかもしれない。しかし、我が国もかつて砲火を交えたアメリカと互いの過去(歴史)をよく理解した上で現在に至る友好、同盟関係を維持してきた経緯がある。伝統や歴史といったものは縋り付いたり押し付けたりするものではなく、理解し尊重していくものである。本来であれば、フランス海軍を理解するためには、歴史的なフランスという国家の成り立ち、フランス人の考え方、政府の内外への姿勢、経済、技術、産業、兵器といった多くの視点から考察をするのが望ましい。ただ時間的余裕がないので、今回はひとまずその中の一要素として、フランス海軍がどのような歴史を辿って現在に至るのか振り返ってみることにする。なお、文中に登場する国々は時代によって本来名称が異なるが、便宜上現在一般的に使われている国名をそのまま使用する。

 

1-1. 二つのフランス

 西ヨーロッパ有数の農業国かつ工業国。カトリック信仰に篤くありながら政教を分離し、強力な中央集権国家でありつつ地方に配慮し、自由・平等・博愛を掲げる人権の国であるにもかかわらず広大な植民地帝国を築き、植民先の先住民文化を同化政策の下で虐げてきた過去を持ちながら世界に文化の多様性を訴える国。様々な矛盾に満ちたフランスであるが、「大陸国家であり海洋国家」という矛盾はその中でも特に興味をそそられる。フランスはその母体となるフランク王国の時代から、地上戦によって国家を防衛し、あるいは領土の拡大を行うという紛れもない大陸国家であったが、フランス王国として領土を拡大するにつれて三つの海に面するようになった。すなわち北海、大西洋、地中海であり、数あるヨーロッパ諸国の中でも三つの海に面するのはフランスぐらいである。ヨーロッパ、アジア、新大陸との海上貿易に有利な条件をフランスは手に入れており、イギリスではなくフランスが世界貿易の大半を掌握することも不可能ではなかった。

 しかし、このフランス特有の性質は、他国に対する優越であると同時にどう活用すれば良いか分からない悩みの種であった。フランスにとって、南のピレネー山脈や東のアルプス山脈と異なり、天然の要塞を持たない北東部の平原は侵入されやすく、国家防衛の点から見れば常に軍隊を駐留させておく必要がある。同時に、この地域は文化、産業の面で発達が著しく、国家を発展させる上でその併合は大変魅力的だった。そのため、大陸へのフランスの戦略は、この地域の防衛と拡大を念頭に置いた一貫したものだったが、海洋に目をやると話が変わってくる。

 フランスの中心となるのは今も昔もパリである。パリはその紋章に帆船が描かれているように、セーヌ川を通じて海洋に繋がってはいるものの、疑いようなく内陸に位置する。大陸での領土拡大を諦め、海洋国家として努力を続けたイギリスやオランダのように、政治、経済の中心地が海洋に面していない。英蘭両国は行政中心地が港町であるという点から国家政策としての海洋進出に抵抗はなかったが、内陸に位置するパリでは海洋進出への障壁が高かった。また、パリは中央集権化を早くから目指していたが、それは各地域の独立性が非常に強いことの裏返しでおり、荒波と寒風を前にしても果敢に船を駆って海に乗り出す人々が住み、商人を通じて他国との交流が盛んな沿岸地域は、特に独立意識、その中でもパリに対する抵抗意識が強かった。そのような地域を説得、あるいは服従させて海洋進出を行うことは大変困難であり、先述したように都市や農村といった内陸意識の強いパリは海洋に関して一貫性のある政策を打ち出すことが中々出来なかったのである。

 

1-2. 地道な航海事業と植民地

 海軍の創設や発展といった活動は貿易と表裏一体の関係である。ある地域で人口が増加し、豊かな文化が生まれるには商業や産業などの発展が必要不可欠であるが、それらに必要な人や物を運ぶ際に「船」という輸送手段は最も効率がいいものである。いわゆる大航海時代に入った15世紀末以降、ヨーロッパ諸国はアメリカやアジアに植民地を獲得、あるいは各地域に存在していた王国や部族国家を属国や保護領として本国の経済活動を支える場とした。それら海外と本国を結ぶ商船の保護を担う専門の海軍の創設や発展は、当然貿易活動と大きな関係を持っていた。16世紀までのヨーロッパ諸国には海軍と呼べるような組織はなく、戦争になれば民間の船を徴用して大砲をたくさん並べて軍艦として使用するのが常であり、船は兵士や物資の輸送手段が第一義で、戦闘は二義的なものと考えられていたのである。

 16世紀中頃、アメリカ大陸の金銀といった莫大な富を本国に輸送していたスペインは度重なる海賊や私掠船の活動に手を焼き、アメリカ大陸と本国を結ぶ商船を守るため、特別に武装した船で編成された艦隊を創設した。これがヨーロッパ初期の海軍と呼べるものである。こういった独自の組織を編成することは当然財政を圧迫することに繋がり、スペインだけでなく他の国々も海軍の創設や維持に苦労することになる。しかし、逆に言えば海軍を保有できるだけの財力、それを可能とする経済活動、その経済活動を支えるだけの本国と植民地の産業発展を成し遂げた国だけが今後の覇権を争えるということを意味していた。

 さて、フランスはどうか。歴代のフランス王たちも、まだ見ぬ世界への関心がないわけではなかったが、南部にスペイン、東部にオーストリア、北部のドーバー海峡を挟んだ対岸にイギリスと、周囲にライバルがひしめく中でそんな余裕はなく、ヨーロッパでの外交と戦争に忙殺されていた。また、先述したとおりフランス王は一貫した海洋政策を打ち出すことが出来なかったため、航海事業については沿岸部に住む船乗りや商人が主体となっていた。1402年にはジャン・ド・ベタンクールとガディフェール・ド・ラ・サルという2人の船乗りがフランス南西部のラ・ロシェルから出発し、モロッコ西方のカナリア諸島を発見、後にスペインにその領有権を譲渡している。1483年にはフランス北西部ノルマンディ地方のオンフルールを出発したジョルジュ・ビシパがセネガル西方のガーボヴェルデ諸島を発見し、1503年には同じくオンフルールからインドを目指したポルミエ・ド・ゴンヴィルが遭難の末にブラジルに到着して現地民と交流している。また、ノルマンディ地方の船乗りは魚を求めてカナダ東部のニューファンドランド付近まで進出することもあったと言われており、当時の商人や船乗りの精力的な活動には脱帽せざるを得ない。

 王権による航海事業は中々進められなかったが、ヴァロワ朝九代目のフランス王であるフランソワ1世(在位1515年~1547年)は初めて具体的な海洋政策をとった。パリを流れるセーヌ川の河口、ル・アーブルに王権直轄の港湾都市を建設し、スペインとポルトガルの間で1494年に結ばれたトルデシリャス条約による世界分割には異を唱えた。当時フランソワ1世はオーストリアとスペインを束ねるハプスブルク家と対立しており、戦争を続けるための財力を確保するためにも、豊かなインドとの交易を望んでいた。「このトルデシリャス条約はポルトガルとスペインの間で結ばれたものであり、フランス王国が束縛される理由はなく、その土地を実際に領有するのは一年以上の支配が不可欠であろう」というのが彼の主張だった。フランソワ1世は1523年、北米大陸の北側を回るインドへの航路を開拓すること、その途中の中継地点として北米大陸に植民地を築くこと(インドは全く逆方向に位置するが、カリブ海に浮かぶ島嶼コロンブス西インド諸島と名付けたようにヨーロッパはインドの場所をはっきりと理解していなかった)を目的に、フィレンツェ出身のジョヴァンニ・ヴェッラツァーノに探検を命じた。彼はルネサンス的教養を備えた船乗りであると同時に、婚姻関係を通じてフランス在住のイタリア人銀行家と繋がりがあり、探検にはこの銀行家が出資を行っている。フランソワ1世が北米大陸を選んだのは、中南米はすでにポルトガルとスペインによる支配が進んでいたこと、ノルマンディ地方に住む船乗りによって北米大陸への航路がある程度把握できていたことが関係している。国王の命を受けたヴェッラツァーノはノースカロライナからフロリダに至る北米大陸東海岸を探検した。

 フランソワ1世の発作的なイタリア侵攻によって、王権による航海事業は一時中断される。十年ほどの空白の後、国王はフランス西部ブルターニュの港町、サン・マロで生まれたジャック・カルティエ北米大陸の探検を命じた。王の命令通り北米大陸に向かったカルティエは1534年無事大陸に到着し、広大な川を発見。この日はちょうど聖ローラン(キリスト教の聖人)の日であったため、ここは後に「セント・ローレンス」と呼ばれるようになる。カルティエは結局1534年から1542年にかけて3度この地域を探検することになるが、これがのちのフランス領カナダ(ヌーヴェル・フランス)の始まりとなった。

 

1-3. 対外戦争と宗教問題

 フランソワ1世のもとで北米大陸に足を踏み入れることに成功したフランスであったが、その後のフランス王はハプスブルク家との戦争(イタリア戦争)と宗教改革を巡る内乱(ユグノー戦争)でそれどころではなくなってしまった。旧教と新教による戦いは60年近く続くが、新教徒の多い港湾都市だけでなく、旧教徒が中心である港湾都市も信仰、商売の自由を掲げてフランス王に抵抗するなどしたために、王と港湾都市の関係は悪化した。彼らにとって重要なのは取引による利益であり、王家の紋章であるフルール・ド・リスが描かれた王旗ではなかった。フランスが再度、北米大陸に目を向ける余裕が生まれたのは国内の混乱を解決し、ブルボン朝初代のフランス王として即位したアンリ4世(在位1589年~1610年)の時代に入ってからである。アンリ4世の支援を受けた航海者サミュエル・ド・シャンプランは北米大陸に向かい、1608年に植民地ケベックを建設。加えてセント・ローレンス川を必死に遡ってヨーロッパ人で初めて五大湖を発見している。

 しかし、1610年にアンリ4世が暗殺されると摂政マリー・ド・メディシスアンリ4世の王妃)の政治に大貴族は不満を持ち始め、更に摂政の期間はとうに終わっているのにもかかわらず、政治の主導権を手放そうとしないマリーと、彼女から政権の奪取を目論んだルイ13世(在位1610年~1643年)との間で「母子戦争」と呼ばれる戦いが起きるなど、混乱が続いた。さらに、アンリ4世は限定的ながら新教徒の国内活動を認める勅令を出していたものの(そもそもアンリ4世は新教徒である。国王即位後に改宗することで旧教徒からの支持を獲得した)、これは必ずしも遵守されておらず、新教徒への迫害は続いていたし、逆に不満を募らせた新教徒が武装蜂起することもあり、宗教問題も完全には解決されていなかった。

 

1-5. 王立海軍の創設

 貴族の反乱や宗教問題で揺れてはいたものの植民活動は地道ながら続けられ、フランスもようやく海外の植民地獲得に成功した。王権に反抗的な港湾都市も、自らの特権的地位をある程度維持することを条件に王権に歩み寄る姿勢を見せ、植民地との貿易も徐々に増加していった。しかし、その航路と海岸線を保護する海軍については先行していた国々、特にイギリスとオランダとの差は歴然であった。定期的な予算、統一された指揮統制、常備艦隊といった近代的な海軍の条件を、両国がこの頃すでに揃えはじめていたのに対して、フランスは全くそのような状況になかったのである。

 この問題に初めて真剣に取り組んだのは、ルイ13世のもとで宰相を務めたリシュリュー枢機卿であった。カトリック信仰に篤い聖職者であるだけでなく、優れた戦略眼を持つ政治指導者でもあったリシュリューは、イギリスなどでとられていた重商主義を採用し、戦争を頻繁に行うフランスの財政を支える経済力の強化を目論んだ。重商主義というのは、貨幣獲得を経済政策の主眼とし、貿易収支の黒字化、輸出助成、輸入制限、国内産業の保護発展を目的とした政策をとることであり、いわゆる保護主義的なものである。

 リシュリュー重商主義政策を採用する上で、イギリスやオランダがそれを可能としているのは彼らの海軍力にあり、フランスが両国と戦争をする上でも、国土の海岸線と貿易活動、漁業活動の保護のためには海軍力は必要であり、軍事的にも経済的にも国家に貢献するものと考えた。1626年、自ら設けた航海・商業長官の職に就任したリシュリューはブレストとトゥーロンに造船所を建設し、フランス初となる建艦計画を発表すると共に、大西洋と地中海に常備艦隊を編成することを決定した。ここにきてようやくフランス王の海軍、王立海軍(Marine RoyaleあるいはLa Royale)が誕生したのである。

 

次回は「王立海軍の発展」です。

 

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